内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「個体化の劇場」としての生命体 ― ジルベール・シモンドンを読む(19)

2016-03-09 02:52:00 | 哲学

 昨日一日だけシモンドンの連載をお休みしましたが、また今日から再開します(お疲れ様です)。
 ただ、文体を変えてみることにします。です・ます調にしてみようと思うのです。調であって体ではないのは、いわゆる「常体」もときに交えるからです。すでに何度かこの文体で記事を書いたことはありますが、それはどちらかというと内容が易しいか軽いときでした。まあ、ちょっとコーヒーブレイクみたいな感じで。難しい哲学的問題を考えるときにも、この文体を試みてみようというわけです。
 扱う問題自体の難しさがそれで軽減されるわけではもちろんありませんが、こうすれば自ずと読み手の方たちに語りかけるような調子になるし、その結果として、議論の進め方が少しは緩やかになるでしょう。その分だけ思考の速度を緩めて、しかし集中力を途切らせることなく、じっくりと腰を据えて考えていこうということでもあります。
 この文体変更には、さらに、この連載を読んでくださる方たち―たとえごく少数であるとしても―への感謝と敬意の気持ちを文章に籠めたいという意図も働いています。
 一文もできるだけ短くするつもりです。若い頃は、簡潔な文を好みました。格好良く言い切りたいって思っていました。いまでも冗長な文は嫌いですが、短い文がだんだん書けなくなってしまいました。何か言おうとすると、そのためにはこれも言っておかないと誤解されるし、あれにも触れておかないと不十分になるしなどと、次から次へと補足事項が頭に浮かんできて、結果として、何かごてごてした文になりがちなのです。このような文を臆病者的あるいは心配性的あるいは老婆心的悪文と呼ぶことにして、そんな文を書かないように自分を戒めます。
 というわけで、気分も新たに、シモンドンのILFIの読解再開です。

 一昨日の記事では、準安定状態から結晶体が形成される過程を物質レベルでの個体化の範型として見ました。
 前個体化存在の準安定性という概念は、生物レベルでの個体化を考える際にも適用可能だとシモンドンは言います。生物レベルでは、しかし、物質レベルと同じように個体化が発生するわけではありません。
 物質レベルでは、個体化がただ「瞬間的に」決定的に発生し、個体化後には、環境と個体という二元性を結果として残します。環境は、環境となることで個体ではなくなり、その分貧しくなり、個体は、個体となることで環境でなくなり、その分やはり貧しくなります。
 個体化によるこのような「貧困化」は、「絶対的起源」(« origine absolue »)に対しては、生物レベルでの個体化でも起こっているのだろうとシモンドンはまず留保します。なぜなら、前個体化存在の準安定性の裡にはあらゆる個体化を超え包む豊穣さが包蔵されていると見ているからでしょう。
 個体化は、しかし、生物レベルでは、絶対的起源に対しては貧困化であるとしても、物質レベルとは違って、「恒常化された個体化」(« individuation perpétuée »)を伴っています。これこそが生命そのものなのであり、この個体化は、生成の根本様式にしたがって恒常化されています。「生命体は、己のうちに恒久的な個体化活動を保持している」(« le vivant conserve en lui une activité d’individuation permanente », p. 27)。生命体は、物質レベルでの結晶体や分子化合物のように、個体化の単なる結果なのではなくて、「個体化の劇場」(« théâtre d’individuation »)なのだとシモンドンは言います(ちょっとかっこいいと思いませんか、この表現)。
 したがって、生命体の活動は、物理的個体とは違って、己自身の限界に限定されず、生命体には、恒久的なコミュニケーションを求める「内的共鳴」(« résonance interne »)のより十全な体制がその裡にあるのです。この内的共鳴体制が前個体化存在の準安定性を生命体に保持させ、この保持こそが生命の条件なのです。