昨日と同じ要領で段落の最後まで読んでしまいましょう。
これまで読んできた中でもすでに何度か繰り返されてきたことですが、個体は実体ではありません。そして、ここで、個体は集団の単なる一部分でもない、と明言されます。
では、集団とそれに参加する個体との関係は、どのようになっているのでしょうか。集団は、個体的な問題群に解決をもたらすものとして個体に対して働く、とシモンドンは言います。これはどういうことでしょうか。以下がこの問いに対するさしあたりの答えですが、その答えの中に「関係」(« relation »)が再び鍵概念として出て来ます。
集団的な現実の基底は、個体の中に部分的にすでに含まれています。その含まれ方は、個体化された現実に結び付けられたままの前個体化的現実という形を取ります。この考えに従うと、心理・社会的世界での関係は、実体論的思考における関係概念とはまったく異なっていることがわかります。ここで批判される実体論的思考とは、個体的現実を実体化してしまう考え方のことです。この考え方に拠ると、関係は、関係を構成することができる個体が一切の関係に先立って先ずそれぞれ在って、それらの間に成立するだけの事後的なものになってしまいます。ところが、存在を生成の相の下に見る個体化論においては、関係は、それを通じて個体が個体になっていく個体化の一次元です。心理・社会的世界においては、言い換えれば、集団的なものが個体に対して働きかけてくる世界では、関係とは、個体がそれに参加する個体化の一次元であり、その参加は、順次段階を追って個体化されていく前個体化的現実から始まっているのです。
ここまで読んだところでの私の考えを補注として一言加えておきます。
個体から関係の成立を考えるのではなく、関係から個体の生成・限定を考えるという思考の方向は、和辻倫理学にも見られますね。両者の比較は、現代社会における技術・身体・倫理を相互に密接に関連する問題として考えるというこの夏の集中講義のテーマを展開するためにも一つの重要な手掛かりを与えてくれるだろうと思っています。
それはそれとして、両者の決定的な違いについて、さしあたりの私見を一言記しておきます。
シモンドンの個体化過程論においては、関係生成の可能性の条件として前個体化的現実がつねに前提されています。ところが、和辻倫理学においては、「間柄」の底にあるのは「空」の運動であるように思われます。
両者の比較については、しかし、後日立ち戻ることにして、少なくともILFIの序論を読み終えるまでは、これ以上立ち入ることはしません。
亀のようなというか、蝸牛のようなというか、この遅々としたペースで読んでいくと、序論を読み終えるのは今月末か来月の初めになりますが、序論をきちんと読んでおけば、膨大な本論の理解もそれだけ明確な見通しをもって深めていけるでしょうから、焦らず怠らずに読んでいきます。