遠隔授業・会議の利点の一つは、そのための移動時間を必要としないことだ。その直前まで別のことをしていることができる。終わった直後に教室・会議室を離れ、別のヴァーチャルな場所に瞬時に移動できる。あるいは、自宅での生活に戻れる。現実の教室や会議室の場合、移動時間を考慮しなくてはならない。ましてや遠く離れた場所への移動が必要であれば、まさにそれが理由で同じ日には無理ということにもなる。この点で、遠隔授業・会議は大いに時間の節約になっている。
ところが、このような日々が続くと次第に疲労が蓄積してくる。身体的にはまったく自宅から外に向かって移動していないどころか、コンピューターの前に張り付いている時間が大半で、体を長時間ろくに動かしもしないままでいる。だから、これはあちこち身体的に移動することによる肉体的疲労とはまったく質の違った疲労である。
十年以上に渡って水泳を続けてきたおかげもあって、長時間のデスクワークのせいでそれ以前にはときに悩まされたこともあった肩こりともずっと無縁だ。他の点でも、ありがたいことに、体のどこかに不調があるわけでもない。それにもかかわらず、何か身心が徐々に不活性にむかって傾斜していく。こんな状態が何ヶ月も続いたらたまらないという気持ちになる。
もちろん、この身心の不活性化傾向の要因を自宅でのテレワークのみに帰することはできない。むしろ外出が厳しく制約されている現在の状況がいつまで続くのかわらないという不確定性の中にいわば宙づりにされていることで身心のエネルギーが浪費されることほうが要因としては大きい。自由に外出できるのであれば、テレワークの合間に、あるいはその前後に外出して気分転換を図ることもできる。それが著しく制約されていることで恒常的なストレス状態に置かれていることが未だかつて経験したことのないこの異質な疲労からの解放を困難にしている。
そこからの逃避を図ろうにも現実にはどこにも逃避場所がないというこの閉塞感から抜け出すにはどうすればよいであろうか。この場にとどまりつつ、異界(ヘテロトピー)への回路を探るか。いや、二十世紀の哲学がそれを廃棄することに躍起になっていた内面世界の忘却された沃野が今新たに探索されるべきなのかも知れない。