内的自己対話-川の畔のささめごと

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「横議」「横行」「横結」は現代社会で再び可能になるだろうか ― 藤田省三「維新の精神」再読

2020-11-19 23:59:59 | 講義の余白から

 明日の授業の準備のために藤田省三の「維新の精神」を再読した。「横行」という言葉が頻繁に出て来る。今日の日本語では、「おうこう」と読み、「勝手な振る舞いが盛んであること、ほしいままにはびこること」という悪い意味で使われるのが普通だ。この意味でのこの語の使用は、しかし、『続日本紀』にも見られ、古代からあったことがわかる。古代から近世までは、「おうぎょう」(わうぎゃう)とも読まれていた。中世には、例えば『太平記』の中で「勝手気ままに歩き回ること、自由にのし歩くこと」という意味でも使われたが、これもけっしていい意味ではない。否定的な意味合いなしに、「横ざまに行くこと。また、横にはって行くこと」という意味で使われている例が『山陽詩鈔』(1833年)に見られる。
 藤田省三の「維新の精神」(初出『みすず』1965年3、5月号、1966年7月号)では、「横行」が維新をもたらした積極的なエレメントの一つとして強調されている。江戸末期、開国を迫られ、全国各地で身分の上下を超えて、横への議論が沸騰した。それが「横議」である。以下の引用は、『藤田省三セレクション』(平凡社ライブラリー 2010年)所収の同論文からである。

横への議論の展開は横への行動の展開を伴う。「横議」の発生は「横行」の発生をもたらした。藩の境界を踏み破って全国を「横行」するものが増大していった。[中略]かくして「身分」によることなく「志」のみによって相互に判断し結集する「志士」が生れ、それは紆余曲折を経ながらも、ネイション・ワイドの連絡を曲がりなりにも作ることとなった。旧社会の体内に新国家の核が生れたのである。維新の政治的一面はこの時誕生したと言ってよい。(158頁)

その論議の過程で、「横議」・「横行」・「横結」が発展した限りにおいてのみ、維新は発生したのであった。事の本末を見失ってはならない。そうして二十世紀後半の今日、「横」の討論と「横」の行動形態と「横」の連帯とを達成せんとするならば、我々は何をなすべきなのであろうか。(160頁)

 コロナ禍は、世界的な規模で、「横」のつながりを分断し、国家による国民の行動の統制をもたらしている。「維新の精神」を現代世界のコンテキストの中で読み直すこと。それを明日の授業で試みる。