『日本書紀』によると、六七一年、天智天皇(大王)が亡命百済人に倭国の冠位を与え、彼らを各種官職に登用したとき、次のような童謡(わざうた)がおこったという(天智一〇年正月是月条)。
橘は 己が枝枝 生れれども 玉に貫く時 同じ緒に貫く
橘は、橘の実のこと。異国産の木で、渡来人を喩えている。「玉に貫く」とは、橘の実を緒に貫いて、玉にすること。『万葉集』に、「わが庭の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり」(大伴家持 巻第八・一四八九)その他の例あり。
歌意は、「橘の身はめいめいの枝になっているが、玉に貫く時は一緒であるように、才芸身分はそれぞれに違っているが、皆一緒に栄爵を賜った」。生まれや身分・才能が異なっている者を共に叙爵し、臣列にひとしく並べた天智の政治をひそかに咎め、やがて起こる壬申の乱を諷したものといわれる(岩波文庫版『日本書紀(五)』補注巻第二十八・一九)。
同じく岩波文庫版『日本書紀(四)』によると、このような童謡(わざうた)は、舒明・皇極・斉明・天智紀の巻末にあらわれることが多い。時事を諷したものが多く、政治的目的などのために児童に歌わせ流行させたものであるという(一七一頁注四)。
事実このとおりであるとすれば、童謡は、日本古代社会において、ある政治的意図をもったイメージ拡散の手段として利用され、いわばメディア(情報媒体)として機能していたということになる。しかし、同注によれば、漢書・後漢書に同様の例が見られる。おそらく、その例に倣い、当時民間に流布していた歌謡を童謡に仕立て上げ、それを『日本書紀』の歴史叙述の政治的文脈の中に埋め込んだと見るほうがより蓋然性が高いのかもしれない。