内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

遠隔集中講義の事前ミニ演習始まる

2021-07-20 16:28:11 | 講義の余白から

 昨年はコロナ禍を理由に休講にした夏の集中講義をこの夏は遠隔で行うことにした経緯については6月14日の記事で話題にした。昨日がその第一回目であった。本来の日程は、7月29日から8月3日(日曜日を除く)の5日間に一日3コマ(1時間半×3=4時間半)計15コマ行うことになっていたのだが、毎日それだけ長時間PCの画面を見つづけながら演習を行うのは、私にとっても学生たちにとってもちょっとしんどいので、教務課の許可と学生たち(といっても履修者は二人だけ)の同意を得た上で、何コマか前倒しして本来の期間のコマ数を減らすことにした。
 昨日の第一回目については、6月中に学生たちに都合を聞き、早めに時間を設定しておいた。残りの分については、昨日相談しながら決めた。私のつもりとしては、5コマ分前倒ししたかったのだが、二人のうちの一人の学生の都合がどうしてもつかず、4コマとなった。そのうちの1コマを昨日消化したわけである。残り3コマは、今週の土曜日と来週の月曜日と水曜日になった。その翌日の木曜日から本来の日程に入る。最終日8月3日だけは3コマとなるが、例年最終日は少し早めに切り上げ、場所を移して打ち上げにしていたので、今回も、遠隔ではあるが、最後の1コマはリモート打ち上げとすることを学生たちに提案した。もちろん彼らもOKである。
 昨日は、第一回目ということで、型どおり、それぞれの自己紹介から入った。続いて、これもまた型どおり、演習の概要、目的、形式等について私から説明した。そして、今回の演習は西谷啓治『宗教とは何か』の読解を主としつつ空の思想のアクチュアリティをメイン・テーマとするので、そのテーマへの導入として、学生たちに四つの質問をした。質問する前に、質問を聞いて最初に思ったことをそのまま言ってほしいと頼んでおいた。
 その質問とは、それぞれ、「宗教」、「空」、「無」と聞いて、何を思い浮かべるか、そして、京都学派について何か知っているか。無防備なところに予告なしで不意打ちのようにくらった質問であるから、当然といえば当然だが、二人とも困惑しながらの回答であった。それでもその困惑そのものを言葉にしようと試みてくれた。実はそれがこちらの狙いであった。その困惑がこの演習の出発点になるからだ。
 京都学派については二人ともほぼ何も知らなかったが、これは少しも驚くにあたらず、だいたいいつもこんなものである。いわゆる « C’est pas grave » である。しかし、宗教、空、無については、ガクモン的知識はなにもなくとも、たとえ漠然とはしていても、何らかのイメージはそれぞれもっているはずである。それを聞きたかったのである。空と無に関しては、本人たちのそれぞれの日常言語の中の語感以上の話は出て来なかったが、それでかまわない。
 少し意外だったのが、二人とも何らかの宗教を信じているわけではないと断った上で、神の存在を否定しなかったことだ。一人は、自分は不可知論者だから、知り得ないことについてその存在を否定する根拠は持ち得ない、といささか哲学的な回答であった。もう一人は、自分の身内に台湾の新興宗教の研究を現地でしている者がいて、その話を聴いているうちに、現代社会の中で機能している集団としての信仰集団に関心を持つようになったと話してくれた。
 初回としては十分な手応えを得ることができたところで時間となった。次回、今週土曜日は、立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫 2003年)に主に依拠しながら、空の思想の起源から現代における空思想までをざっとおさらいする。中村元『龍樹』(講談社学術文庫 2002年)にも少し言及し、現代ヨーロッパにおける空思想への哲学的関心の例として、Françoise Dastur, Figures du néant et de la négation entre orient et occident, Les Belles Lettres, collection « encre marine », 2018Frédéric Nef, La force du vide. Essai de métaphysique, Éditions du Seuil, 2011 を紹介する。