内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

目の前の聴き手に向かって発されるべき言葉と印刷された文字を読むだけの読み手に向けられるべき言葉とは同じではありえない

2021-07-14 15:47:03 | 雑感

 今週土曜日の発表原稿は、昨日、一応完成した。とはいえ、当日読み上げるだけでいいベタな原稿ではない。むしろ発表のための下原稿と言ったほうがいい。それに、45分の発表時間に対していささか長過ぎる。補足や展開の仕方によっては優に一時間は越えてしまう。明日、要所々々を図式化したパワーポイントを作成し、当日は発表が進むにつれ残された時間に応じて適当に省略して45分に収めるようにする。
 今回の発表言語は日本語だが、仏語で発表するときも、ただ読み上げるだけでいい「完成原稿」は用意しない。というか、できない。どうしてもその場でのアドリブや補足が入るからである。それを排除してただ原稿を読み上げるだけというのは私にはありえない。その通り読むだけでいい完成原稿ができているなら、それを先に参加者に渡しておいて、発表当日は、原稿読み上げは省略、いきなり議論に入ればいいではないか。そのほうが議論そのもののために時間をより有効に使える。
 ときどき、発表原稿そのものを全部パワーポイントでベタに表示する発表者がいるが、正直、意味わからん。画面一杯に貼り付けられたテキストを読むだけの時間を聴き手(じゃなくて、読み手だよね)に与えるならともかく、それに必要な時間さえも与えず、勝手に次の頁に進んでいく(何これ? 速読訓練教室なの? 「読めよ、オラ!」って感じ。あんた何様?)。
 こんなんだったら、そもそも口頭発表なんか必要ないでしょ。「どうぞ、画面上のテキストをお読みください」とだけ言ってしばし黙り、聴衆がその頁を読み終えたと確認できたら、「皆様、よろしゅうございますか? それでは次頁に移らせていただきます」とかボソッとうつむき加減に謙虚っぽく言って、粛々と次の頁に進めばいいわけでしょ。だったら、発表者そのものも必要なくねぇ? 
 今回の発表原稿は後日学会誌に掲載されることになっているが、それはまた別の話。発表を聴いてくださった方たちがまたその掲載論文を読んでくださるということもなくはないだろうが、それは考慮の外に置き、論文だけを読んでくださる方がいると仮定して、それらの方たちを主たる読者として発表原稿を推敲する。
 目の前にいる聴き手に応じて発される言葉と印刷された文字のみを読む読者に向けられた書き言葉とは同じではありえない。