イソクラテスは、弁論家教育の三条件として、自然的素質、練習、教育法の三つを挙げる。これはなにも弁論家教育に限った話ではないであろう。イソクラテスが弁論家教育の三条件について語っている箇所は少なからずあるが、それらを一般教育論として読むこともできるように思われる。
この三条件にイソクラテスがどのような序列を与えているかについては、テキストによって異なった記述が見られ、矛盾したことを言っているようにも見える。しかし、廣川氏はそれらの記述を丹念に考究しながら、全体として合理的な解釈を提示しようと努めている。
生まれつきの素質を強調してしまえば、それだけ練習と教育法の意義は小さくなる。練習の大切さを強調するあまり、素質ある者とない者との到達度の差異を無視するのも公平ではない。素質と練習だけで一人前の弁論家になれるのならば、教育法はたいして重要ではなくなってしまう。逆に、教育法をまるで魔法の杖のように奉るのも欺瞞でしかない。
廣川氏によれば、「運命としての素質論から人びとを解放するのがイソクラテスのピロソフィア―であり、この点にむしろ彼の教育観の積極性を見るべきだろう」ということになる。
確かに、一定の教育法に基づいた練習を弟子に課し、弟子が自らその練習を重ねることで、素質に恵まれない者も一定のレベルまで達することができ、素質ある者はそれを十全に伸ばし、かつそれを善用することができるのが望ましいに違いない。
素質に恵まれない者がそれを理由に勉学を諦めることもなく、練習を重ねることで己の能力を高め、知性あるいは思慮によって賢慮ある者となること、素質に恵まれた者がそれを悪用することがないように知性によって弁え、思慮深く行動する者であること、これらのことの実現に有効であってはじめて、教育(法)はその名に値するものと言えるだろう。