内的自己対話-川の畔のささめごと

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イソクラテスの生涯(三)― 金銭のために行なう法廷弁論を生業としたことを強く嫌悪し深く恥じる

2022-03-13 12:46:54 | 読游摘録

 イソクラテスは、修業時代を終えた後、当時弁論・修辞の技術を学んだ者の多くと同じように、裁判法廷の演説つくりをする法廷弁論代作人(ロゴグラポス)を生業として生活の資を得たらしい。彼自身が法廷に立って演説をすることはなかったという。それは、後年、彼自身が回想しているように、「大衆をうまく扱ったり、演壇の上をうろつく連中と悪態をついたり言い合ったりできるほどの声量と度胸を生来もっていなかった」からで、これについては古伝もそろって「臆病と声が小さい」ためと同趣旨の理由を伝えている。このロゴグラポスとしておよそ十年あまり働いたらしい。
 前391年頃、イソクラテスはアテナイに帰ってまもなく、弁論・修辞学の学校を設立した。おそらく前390年頃のことである。この学校は、一定の場所において高等教育が授けられたという意味で、おそらくその二、三年後に創設されたプラトンの学園アカデメイアとともにアテナイ最初の高等教育機関であった。
 たんに法廷弁論代作人などの専門的職業として金銭を得るための、あるいは有能な政治家として名を挙げるための弁論・修辞の技術ではなくて、むしろひとりの優れた「教養人」となるための、教養(パイデイアー)としての弁論・修辞教育の理念は、イソクラテスにおいて初めて着想され実践された。
 イソクラテスが自分の理念にしたがって真の教養人としての正道を歩みえた信じることができたのは、この学校設立以後のことであり、言い換えれば、この年から死までのほぼ五十年こそ、イソクラテスにとって、いわば真正の経歴にほかならなかった。
 イソクラテスは、後年、多くの論説をつぎつぎに公表し、そのなかで私事に言及することも少なくなかったにもかかわらず、ロゴグラポス時代のことにはいっさい触れず沈黙を守っている。この沈黙について、「事がらの正不正、善悪にかかわりなく、依頼人つまり金銭のために行なう法廷弁論を生業としたことを彼は強く嫌悪し深く恥じていたものと思われる」と廣川氏は推測している。