プラトンの学園アカデメイアがアテナイ市のどのあたりにあったか、どのような施設を擁していたかはほぼ確定できるのに対して、イソクラテスの学校が市内のどこに置かれたのか、どのような施設から成っていたかについては確実なことは何もわからない。
アカデメイアが「東ローマ皇帝ユスティニアヌスの勅令(529)による活動停止まで900年余にわたって存続し,古代ギリシア・ローマ世界における学問研究のセンターとして大きな役割を果たした」(『世界大百科事典』)のに対して、彼一代で終わることになるイソクラテスの学校が「その具体的身体を歴史の闇のなかに埋没させることになるのはあるいは当然のことだといえるかもしれない」(廣川洋一『イソクラテスの学校』)。
教育上の信念から、弟子を一度に多くとらずその数を限っていたイソクラテスの学校は、アカデメイアに比べて、簡素な施設ですんだはずであると廣川氏は推測している。学校がアテナイ市のどのあたりにあったか、廣川氏は後代の史料に基づいてかなり詳しい推測を述べているが、私はそれには関心がないのでその箇所は飛ばす。
廣川氏は、さらに、その推定に基づいて特定された場所がプラトンの『パイドロス』の中での美しく描写されており、イソクラテスの学校の置かれてあった自然環境を知る上でこれほど適切な証言はないと、『パイドロス』から長い引用を行い、その上でそのあたりの当時の雰囲気の再現に努めている。それはそれで興味深いが、イソクラテスの学校について何か具体的に確たるイメージを与えてくれるわけではない。
学校の成立時期についても確たる証拠はない。「その絶対年代を確定することはほとんど不可能だといわなければならない」(廣川書)。ただ、一般に前393~390年の間とみる点で学者たちの意見は一致していると考えてよいという。