内的自己対話-川の畔のささめごと

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孔子の人生の中の「不惑」― 貝塚茂樹訳注『論語』より

2022-03-24 23:59:59 | 読游摘録

 『論語』を読んだことがない人でも、「不惑」という言葉は知っているか、どこかで聞いたことがあるでしょう。でも、最近はあまり使われなくなっているのかも知れないですね。平均寿命が伸長し、四十歳になっても、ようやく人生の折り返し地点か、その少し手前であり、充実した人生をそれまで送られてきた方はまだまだ発展途上でしょうし、逆にいまだに迷いっぱなしだったという方もあるでしょう。私は言うまでもなく後者の部類で、しかも「耳順」を過ぎていまだに「不惑」からはほど遠く、「天命」を知る前に「お陀仏」(これももう死語に近い?)でしょうね。
 さて、この「不惑」、『論語』の諸注釈を読んでもピンとこないことが多いのではないでしょうか。貝塚『論語』は、正当にも、「古注には「疑惑せず」となっているが、いったい何について「疑惑しない」のだろう」と問い返し、朱子の注解「事物のまさにしかるべき当然の理について疑いがなくなった」について、「抽象的解釈にすぎない」と、小気味よくバッサリ切り捨てています。
 貝塚『論語』には、このあまりにも有名な一章にとても長い注が付いていて、それぞれの年齢における孔子の人生経験と対応させて解釈しています。「不惑」についても以下の通りの長い注解がついています。

孔子が三十六歳のとき、魯の昭公が国政の指導権を豪族の三桓氏(孟孫・叔孫・季孫の家老三家)から奪いかえそうとしてクーデターを行って失敗し、斉国に亡命した。昭公を支持した孔子は、その後を追って斉国におもむいた。その後七年間、魯では空位時代がつづき、前五一〇年、昭公が亡命さきの斉国で病死したのち、前五〇九年、故国では定公が即位する。この時代の年齢階層では、四十歳を強といい、ここで仕官することになっている。四十歳の峠にさしかかり、愛国者であった孔子は非常に悩んだにちがいないが、まだ昭公の在世中かおそくともその死後、定公即位の年、つまり孔子四十四歳のころまでには仕官していたと推定されている。この「惑わず」とは、この孔子が昭公への忠誠と故国への思慕との矛盾をこえて、帰国の決意をしたことをあらわしている。彼がこれまで学習によってあきらかにした周の礼、それが三桓氏によってふみにじられている。それをどうしても復興しなければならない。そのためには帰国して現実の魯の政権に仕え、地位を得なければならないとさとったのである。

 実に具体的かつ生き生きとした注解ですね。これだと何に「惑わず」なのか、腑に落ちます。貝塚先生はこの章全体について次のように述べていらっしゃいます。

これは、孔子が晩年に自分の生涯をふりかえった、感慨のこもったことばである。今までの注釈は、もっぱら教養によって聖人の域に至った過程を述べたものとして、われら凡人どもの精神修養の助けとして読む態度で解釈してきた。そういう読み方は一つの読み方、いや一つどころかたいへんりっぱな読み方ではある。しかし、万事控えめで、非常に反省心が強く、自己を誇らない孔子が、いつも苦難に満ち、試練にさらされて成長してきたその生涯を、無限の感慨をもってふりかえっての発想を、じゅうぶんにくみとっていない。

 貝塚『論語』を読んでいると、生ける孔子の肉声の息吹に触れる思いがします。