プラトンは、当時流行していたレートリケーに対して、『ゴルギアス』と『パイドロス』のなかで批判しています。両書には優れた日本語訳もありますから、プラトンの言わんとするところをよく理解するためには作品そのものを直接読むに如くはないわけですが、まずは『論証のレトリック』によって要点を押さえることにしましょう。
当時の弁論家たちによって、レートリケーとは、一般に、「説得をつくり出すもの」(『ゴルギアス』453A)でした。レートリケーとは説得術だということです。しかし、プラトンは、それを、論じられる事柄に関する「知識をもたらす説得」ではなく、「信念をもたらす説得」にすぎないと批判します(454E‐455A)。
プラトンにとって、「知識」は、真なるものであり、しかも体系的な理論を伴うものでければならなかったのに、「信念」は、真である場合もあれば、偽である場合もあるような、「思いなし」(ドクサ)にすぎません。
当時、レートリケーは、一種の政治術であるかのようにソフィストたちによって喧伝されていましたが、プラトンに言わせると、それは技術の名に値しません。その理由は以下のとおりです。
一般に、技術は取り扱う対象の善(すぐれていること)をめざすものである。政治術は、人々の心(精神)を対象とし、心ができるだけ善いものとなり、人々がすぐれた市民(社会人)とはなるように配慮する技術である。ところが、レートリケーは、人々の心にもっぱら快をもたらすことだけを狙い、その快が善いものなのか悪いものなのかについて無関心である。だから、レートリケーは、技術ではなく、「迎合」の一種に他ならない。
そのうえ、一般に、技術は、取り扱う対象についても取りおこなう処置についても理論的な知識をそなえていなければならないのに、レートリケーにはそういうものが欠けているとみなされます。だから、レートリケーは、技術ではなく、単なる「経験」や「熟練」にすぎないとプラトンは批判します。
このような一節を読んでいると、いったい私たちの社会は古代ギリシアの時代から半歩でも進歩していると言えるのだろうかと自問せざるを得ません。私が古代ギリシアのレートリケーに強い関心を持つ理由もそこにあります。レートリケーは、とても「アクチュアル」なテーマだと思うのです。