イソクラテスが弁論・修辞の学の専門家・教育者として真の経歴の開始を宣言したのは、アテナイに学校を創設したのとほぼ時を同じくして公表された『ソフィスト反駁』においてであった。
その中でソフィストたちは以下の三つのカテゴリーに分類されている。争論術を専らとし真理の探究という美名のものにまやかしの術をなす人びと。詐欺まがいの行為に耽る法廷および民会弁論の専門教師たち。「弁論・修辞術の技術書」を書き、低俗な法廷弁論にのみたずさわる初期の弁論家たち。
いずれも真の教養を与える「知者」(ソピステ‐ス)ではないとして強く批判される。これらの人たちは、いずれもアテナイの高等教育を代表する者たちであり、教育という面でのイソクラテスの強力なライヴァルであった。イソクラテスのこのマニフェスト的な論文は、これらライヴァルたちに対して、自己の教養理念を擁護し、彼らのそれを批判指弾する開戦宣言の書の性格をもつものであった。
イソクラテスの学校の声価は次第に高まり、学生たちはアテナイからだけでなく、西はシケリア、東は黒海からも集まるようになっていた。
教育の傍ら、イソクラテスは多数の弁論、演説を執筆するが、自ら演壇に立つことはなかった。それは、すでに見たように、生来の「臆病と声の小さいため」でもあったであろうが、それだけでなく、政治弁論家として派手な表舞台で働くよりも、政治理論家・政治批評家として、いわば書斎のなかでの活動をいっそう好んだ彼の性格にもよるだろうと廣川氏は見ている。
この意味で、イソクラテスは、本質的に政治家ではなく、教養人、教育家であった。
以下、イソクラテスの最晩年に至るまでの活動については廣川書を見られたし。
明日の記事からは、イソクラテスの学校について見ていきたい。