内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「人間としての教養」から遠く離れて

2022-03-03 23:59:59 | 読游摘録

 今はブログに拙文などを呑気に綴っていられる気分ではありません。愚にもつかない御託を並べるよりはと、しばらくは読んで感銘を受けた本からの抜粋のみといたします。浅野楢英著『論証のレトリック』からの引用を続けます。以下は昨日の記事で引用した段落の直後の節「人間としての教養」からの抜粋です。

常識は言論の大きな基盤です。けれども上手な言論というだけでなく、知恵(思慮分別)を伴う言論ということになると、教養が基盤となるでしょう。教養または教育というのは、ギリシア語でパイデイアーといわれます。ちなみに古代ローマの著述家ウァロやキケロがこの語に対するラテン語訳として当てたのが、フーマーニタース(humanitas 人間的・人文的なもの)だったのです。

教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるものではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

プラトンの最晩年の対話篇とみられる『法律』では、教養とはなにかということが語られています。たとえば小売商や船の舵取りなどの専門的技術について相当の教育を受けた人でも、それだけなら無教養だといわれるのです。教養のある人というのは、「徳をめざしての教育」を受けた人のことであって、その「徳」というのは「正しく支配し、支配されるすべを心得た、完全な市民(国家社会の一員)になろうと、求め憧れる者をつくりあげるもの」(643E)のことだというのです。