イソクラテスの弁論・修辞学校は、やがて世に広く知られ、アテナイからだけでなく、全ギリシア世界から優秀な青年たちを引き寄せる。イソクラテスの崇拝者であったキケロによれば、全ギリシアの雄弁がその学校において修められ完成され、彼の弟子たちは当時最高の弁論家、弁論・修辞学教師、政治家、歴史家であった。
いったいどれほどの学生が彼の学校で教えを受けたのかについて、廣川氏は先行研究に依拠しながら詳しく検証している。その結論として、「彼は全生涯を通して一〇〇人ほどの正規学生を教えたのであり、彼の教授期間を五〇年とみれば平均して年間二人の正規の弟子をもったと考えるのが実情にかなうものであろう」と述べている。さらに、「彼が一定の場所に居住して教え、しかも異例の長寿を全うしていることからみて、当時アテナイで教えていたすべてのソフィスト、弁論・修辞学教師たちにくらべて、いっそう多くの弟子をもったと考えても、おそらく誤ってはいないと思われる」と付け加えている。
廣川書では、実際にどのような弟子たちがいたのか、かなり詳しく紹介されているが、そこは飛ばす。「学生たち」という節の最後の段落を、ギリシア語と出典略記のみ省略し、全文引用する。
師イソクラテスと弟子たちの間がきわめて暖かいものであったらしいのは、「私は若かった頃から老人になった今にいたるまで」変わることなく親密な交わりを結んでいる、学校開設当初の弟子たち―彼らはイソクラテスの輝やくばかりの弟子たちのなかでは無名の人びとであったにもかかわらず―の名を、むしろ誇らしげに挙げている『アンティドシス』からも見てとれるだろう。また、三年、あるいは四年の教育期間が過ぎて、故郷の親たちや友人たちの元に帰らなければならぬ時がやってくると、師のイソクラテスと過ごした生活がきわめて幸福なものであったから「苦痛と涙なしに去ることができなかった」といわれている。少数の者たちと共同生活を続けながらの教育活動がいかに稔りある結果をもたらしたかは、彼の育てた一群のすぐれた弟子そのものが雄弁に語っている。