内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

忘却を超えるもの ― 貝塚茂樹訳注『論語』「解説」より

2022-03-25 23:59:59 | 読游摘録

 現代の私たちは、紙媒体であれ、電子媒体であれ、書かれた文章であれ、口頭で発表されたものであれ、それらのデータをいとも容易にリアルタイムで迅速にそして永続的に保存することができます。この点で現代が人類史上最も高度に進歩した時代であることは論を俟たないでしょう。しかも、私たちが日々利用している記憶媒体は、まさに日進月歩で、より小さくて軽くて容量がより大きくて、しかも扱いがさらに簡単な製品が続々と開発され続けています。
 しかし、まさにそうであるからこそ、そうして保存され続け無限に増大するデータのほとんどは、ごくわずかの人たちにだけ知られ利用されるか、あるいは誰にも知られずにやがて廃棄されるほかありません。
 他方、そうした埋もれかけた膨大なデータの中に貴重な情報が含まれていて、何年も、何十年も、いや何世紀も経ってから、それらが(再)発見され、その未来の時代の人たちの役に立つという可能性もあります。ですから、役に立つかどうかは別として、とりあえずデータを保存しておくことは無意味ではないだろうと私は思っています。
 翻って、紙そのものがまだ存在しなかった古代のことを考えると、いや、そこまで歴史を遡らなくても、長期間に渡って保存可能な記憶媒体の存在しなかった時代のことを思うと、いったいどれだけの貴重なデータが永遠に失われてしまったのか、まったく想像もつきません。それを嘆いても仕方のないことですが、他方、そんな条件下で二千数百年の時を超えて今日まで保存されているデータがあるということは、ほとんど奇跡のようにも思えます。
 こんなことをぼんやりと考えたのは、貝塚茂樹訳注『論語』の解説の次の一節を読んだことがきっかけでした。

 紀元前五世紀、いまから二千四百余年まえの中国には、まだ紙はなかったので、書物はすべて、竹や木の細い札の上に一行ずつ書いて、綴り合せて巻物としたものであった。たいへんかさばるので、書物はあまり多く流通していなかったし、だいたい孔子自身が自分で自分の思想を本に書こうともしなかった。それは高い徳をそなえ、謙遜な人柄であった孔子だから、とくに他人に自分の思想を宣伝しようとしなかったからではない。当時の社会には今のように、自己の考えを本人が書くという習慣がなかったのである。
 書写の技術も未発達で、印刷術発明以前のこのころは、言葉は人から人へ、口頭で伝承された。有名な政治家や学者などがいった言葉はすぐ口頭で世の中に伝わっていく、自分の言葉が永久に残り、思想が不朽となることは最高の名誉だと人びとは考えていた。その切なる願いにもかかわらず、同時代の人びとの言葉はほとんど大部分が忘却されてしまって、ただ孔子の言葉が『論語』として二千五百年の間に、中国のみならず、東は朝鮮半島を通じで日本にも伝わり、東アジアのあらゆる知識人によって愛読されつづけてきた。