同じ授業で同じ史料を同じように紹介しているのに、年によって学生たちの反応が違う。それはそれで興味深いことだと言えなくもないけれど、どうしてここで関心持ってくれないのかなあと、ちょっと寂しくなることもある。いや、そういうことのほうが多い。それは学生のせいばかりではない。こっちの紹介の仕方にも問題がある。正直に言えば、主因はこちらにある。
今日、来週の授業の準備の一環としてルイス・フロイスの『日本史』を読み直していた。日本および日本人がはじめてヨーロッパ人によってどのように見られたかを実例によって示すためである。授業の主な目的は近代日本の歴史と社会であるが、明治期の「近代化」の特異点を浮かび上がらせるために、16世紀後半の西洋人とのファースト・コンタクトと19世紀半ばのセカンド・コンタクトとをまずは対比してみようというのが「鎖国」以前の日本に立ち戻る理由である。
歴史はいつもあるパースペクティブのなかでしか語り得ない。そのことを学生たちに理解してもらいたい。歴史はいつもある観点からある距離において語られざるを得ない。同時代の史料は一般にその距離を欠いている。ところが、16世紀後半の日本については、キリスト教宣教師(おもにイエズス会士)たちによる同時代の外からの眼差しによる記録がある。ある内在的な非日本的観点から観察された「日本」がそこにある。
この内在的非日本的観点は、外国人宣教師にとっては、そうあらざるを得なかったとも言える。私が問題にしたいのは、そこから私たちは何を学べるか、ということである。この問いは授業ではあからさまには提示しない。しかし、直面している対象に対して内在的に距離を取る態度というのは、自分がどの時代に生きているかに関わらず、いつでも必要なのではないだろうか。私がほんとうに問いたいことはこれなのです。