内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

復刊された山本博文『殉死の構造』(角川新書、2022年)の本郷恵子氏による解説を読んで

2022-10-25 05:29:12 | 読游摘録

 昨年度、新渡戸稲造の『武士道』を修士一年の演習のテキストとして読んだとき、数ある日本語訳の中で山本博文氏の訳がもっとも参考になり、その解説からも多くを学んだ。その訳と併せて同氏の『武士と世間』(中公新書、2003年)も演習で取り上げた。それに特に興味を示した日仏の学生たちは同書に依拠しながら自分たちのチームの発表を行った。
 その時には電子書籍版では入手ができなかった同氏の『殉死の構造』(講談社学術文庫、2008年)が先月角川新書として復刊された。さっそく購入したが、まだ本文は読んでいない。本郷恵子氏による解説は読んだ。その中に、歴史学者としての覚悟と厳しい自己限定が垣間見られる次のような段落がある。

 著者は、一七世紀の武士が心の底から願って殉死する心理を、現代人には理解しがたいものと明言している。過去の人々の意識が、現代の私たちのそれと異質であることを認め、その拠ってきたるところを明確にすることこそが歴史学の使命である。過去から現在へと、変わらぬ何かが連綿と繋がっていると、「伝統」のような曖昧で安易な言葉で説明するのは正しくない。とくに形にあらわれない「心性」については、時代を超えた一貫性があると強調する論者も多いが、厳に慎むべきだろう。

 このような「伝統」論や「心性」論への誘惑には外国人に日本文化なるものを説明するときに負けやすい。私もそのひとりだ。作家、藝術家、評論家、映画監督などがこの手の言説を語るのは、まあ言論の自由だから、どうしようもない。が、例えば、村上春樹や高畑勲などが、いっさいの検証手続きなしに、日本人の変わらぬ心性としての無常観について語っている文章を読むと、そのまま放置はできないと私は思ってしまう。(ニホン的)「霊性」について喋々する連中も私には胡散臭くしか見えない。
 むしろ、このような言説が現代において流通してしまう理由をこそ明らかにすべきだと思う。古代から近世、いや近代も含めて、何か連綿と繋がっているなにか(ムスビとかね)を人は求めたがる。そして、そんな話に納得して安心する。いや、感動しさえする。そして、何も変わらない。変わっているのに気づかない。あるいは、気づいていても、目を背ける。あるいは、気づいていないふりをする。結局、私もそのひとりだ。