今回の中間試験から日本語の文章の仏訳を試験問題に組み入れることにしたため、問題作成時にちょうどよいレベルの文章を探していて、それが普段自分自身のために読むときとは少しちがった眼で日本語の文章を読む機会となり、「発見」とまで言えば大げさになるが、いろいろと気づかされたことがあって面白かった。
対象となった文章は、授業で扱ったテーマのいずれかとなんらかの関係がある文章であるから、いわゆる文学的な文章は随筆の類も含めて最初から対象外であった。特定分野の術語が多用される学術的専門書も対象外である。日本の学者先生たちが一般向け或いは日本の大学生向けに書いた文章が主な対象であった。だから、構文としてはあまり複雑でなく、語彙レベルも大学入試レベルを越えるものではない。
これらの文章は言うまでもなく日本人に読まれることを前提として書かれている。あるいはそう意識することもなく、日本語として比較的平易な文章として書かれている。あとがきなどでよく著者たちが言及するように、担当編集者による読者目線からの指摘が取り入れられていることも多い。だから、日本人の一般読者にとって読みにくい文章は対象とされた文章の中にはなかった。
それでも、自分がわかっていることを読者もわかってくれていると著者が期待あるいは想定して書いていると思われるところも多々ある。それは当然のことだ。この常識的「暗黙知」の共有は、しかし、外国人読者にとっては自明のことではない。ましてや日本語学習を始めて一二年の学生たちにそれを求めることには無理がある。
これらのことを勘案しつつ手頃な文章を探していると、なかなかすべての条件をクリアしている文章が見つからない。語彙に関しては、明らかに学生たちのレベルを超えている語にはフリガナを付し、訳語も与えることにした。構文を理解できているかどうかが評価のもっとも重要な基準になる。
二年生には以下の文章が適切なレベルの指標の一つになる。
注目されるのは、ここでは国土と神々の生誕は説かれるが、人の生成は説かれないということである。確かに皇室はアマテラスの子孫であり、また、大きな豪族については、その祖先神が立てられる。しかし、そうした大きな豪族以外の人々はどのようにして生まれたのかというと、それについてはまったく説かれていない。一般の人々はどうやら国土とともに生まれたらしく、「青人草」「人草」と呼ばれ、いわば国土の付属物のように扱われている。それ故、その神話はあくまで支配者にとって支配の正統性を語るものであり、一般の人々はまったく問題にされていない。
末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)、17頁。
試験問題は同著者の『日本思想史』(岩波新書、2020年)から上掲の文章と内容的に近い箇所を選んだ。
三年生にとっては、以下の文章がやや難しめということになる。
歴史家の仕事の本領は、具体的な対象と取り組む現場の職人仕事にあり、方法論や歴史哲学について大仰に論ずるのはふさわしくないだろう。それに、こうした歴史家の仕事の一般的性格上、歴史家の方法論には対象の性格に応じてつくりなおされてゆく側面があり、一般化した記述にはなじまないところもあると思う。しかし、私たちが自分の日ごろの勉強の中身をすこし吟味してみるとわかるように、歴史家の仕事にはかなり複雑な認識理論上の諸問題がふくまれており、鋭敏な方法意識をもつように努力することは、私たちの自己訓練として重要なことだと考える。
安丸良夫『〈方法〉としての思想史』(法蔵館文庫、2021年)、25‐26頁。
試験問題は同書の別の箇所から一文一文がもう少し短い文からなる四行ほどの文章を二つ選んだ。
さて、学生たちはどんな訳を示してくれるだろうか。