それから、これだけは断っておきたいが、ここで書いている「日本人の信仰心」のなかに、私はいちばん無垢な、普遍的な信仰の命を観ようとしているのであって、それが日本人だけのものだとは少しも思っていない。それは現実にあるどの民族、どの宗派の占有物でもない。けれども、その信仰心は、古い日本のなかに、この国が日本と呼ばれるよりもはるかに古いこの土地のなかに、ほんとうに生まれ、それは今でも耳を済ませばこの土地の深く隠れた水脈のように、かすかな音を立てているのである。
この文章を書いた人を批判することが目的ではないので名前は伏せる。私自身がこの本を最初に読んだときは、かなり期待をもって読んだ。読後もその所説のすべてを否定するつもりはない。それどころか、いろいろと勉強になりました、と言ってもよい。
それにしても、こういうコバヤシヒデオ的あるいはヤスダヨジュウロウ的断定は何を根拠としているのか、と問わざるを得ない。古来、何があっても変わらずに私たちの生きている土地に今も息づいているものがあるって、どうやってそれを検証するのか。
検証が誰にもできないとわかっているからこそ、こういう言説は横行しうる。それどころか、検証などという賢しらごと(漢意あるいは西欧近代思想)にこだわっているから、「かすかな音」が聞こえないのだとさえ、この手の論者たちは言うかもしれない。
こういう検証不可能な断定から構成される言説は、それを肯定し、それに荷担する人たちによってのみ担保されうる。書いた本人はそのつもりがなくても、この手の言説はイデオロギーあるいは教条としてしか機能し得ない。
「いちばん無垢な、普遍的な信仰の命」、「現実にあるどの民族、どの宗派の占有物でもない」、どちらもいかにも美しい表現だ。
ひねくれ者で世の中を斜めにしか見られない私は、こういった美辞麗句に接すると、まさにそれが美しいからこそ、虚偽でしかありえないと思ってしまう。
多分、私が間違っているのだろう。