昨日の記事で話題にしたルイス・フロイスの『日本史』から、以下の一節も授業で紹介したい。こんな記述から歴史小説の一コマを描けたらいいなと夢想したりもするが、いかんせん、才能がない悲しさよ。
羽柴筑前殿は天下の君となるや、大坂において、先に(織田)信長が安土山に築いた城より万事において優れた城、ならびに城下町を構築することを決意した。彼は絶大な権力と所領を有し、かく決心すると、それをただちに実行に移した。往時を知るすべての人々の証言どおり、日本において今日まで以下に述べるほど絢爛、豪華、そして壮大なものを造りあげた人物とてはいないのである。
(一五)八三年の主の御降誕の祝日に、大坂の教会で初ミサが献げられた。諸国から参集した男女のキリシタンの数は異常なばかりであり、これら全信徒にあまねく見受けられた熱意と篤信さは、司祭たちをしていたく感動せしめるものがあった。
教会は、説教を聞きに来る異教徒たちにしてみれば、もっとも気品あり寛ぐことができる場所でもあったので、ただちに大勢の人たちが昼夜を問わず来訪するようになり、彼らに対する説教に従事していた修道士たちは、いとも多くの人々にすべて応じる時間が足りない有様であった。しかもその(大坂の)市は、日本におけるもっとも主要な政庁の所在地であったから、全国から使者が不断に来往し、そこには大多数の貴人や諸侯が常時在住し、誰しもが同様に我らの修道院を訪ねることを楽しみにしていた。ある者は気晴らしのために、また他の者は説教が新奇であり、有益なことに引かれて来訪したのであるが、主なるデウスの御加護により、ついにその地でも改宗者が出るようになり、きわめて身分の高い人たちがキリシタンになった。
これらの改宗者の中には、年齢十八、九歳の身分の高い若者がいた。彼は(羽柴)筑前殿のもっとも親近の間柄にある側臣で、学問にも秀で、デウスのことに精通するようになってからは自らがキリシタンであることを公言し、仲間たちに対して説教を聞きに教会へ赴くように勧告してやまなかった。彼はキリシタンになる前は、いとも残酷で、殺人を好み、政庁では世俗の虚栄と快楽を追うことにおいて比類なき人物であったが、受洗後は、まるで生まれ変わったようになり、身についていた一切の悪は善に転じた。
この若者の改宗に驚いた他の侍たち、および高貴な諸侯の息子らは、彼の模範と説得とにより、大挙して我らの修道院を訪れて来たので、修道士たちは辛うじて彼らの要請に応じることができたほどであった。これら説教を聞いた人々のうち、十名ないし十二名の高貴な若者がキリシタンになったが、彼らはいずれも羽柴(筑前)殿の側近者で、つねに彼の面前で奉仕している人々であった。
『完訳フロイス日本史4 豊臣秀吉篇一』中公文庫、p. 30-32.