丸山眞男の「歴史意識の『古層』」が『日本の思想六 歴史思想集』(筑摩書房)の解説「日本歴史観の歴史」第一章として発表されてからちょうど五十年になる。発表直後から毀誉褒貶の激しかった論考で、丸山の数ある作品の中でももっともよく知られた文章の一つであろう。宿命論的、実在論的、本質論主義的などと批判的に取り上げられることが多い。確かに、それらの批判は古層論の一面を突いてはいる。しかし、丸山の壮大な試みを批判的に継承しようとする仕事は少ないように思う。
安丸良夫は、『現代日本思想論』(岩波現代文庫、2012年。原本、岩波書店、2004年)第5章「丸山思想史学と思想様式論」の中で、思想史研究を、人間の経験をその人間にとっての「意味の相互連関」のなかで捉えるところに固有の存在意義を見出すものとした上で、「こうした「意味」の世界のさらに基底部に、「原型」「古層」「執拗低音」のようなものが存在するか否かは、歴史家としては明言できないこと、あるいは明言してはならないことだと思う」と丸山の古層論を批判している。この批判は、歴史家という自己規定から当然導かれる帰結で、それとして妥当である。しかし、古層論の構想はこの批判によって葬り去られるものでもない。
飯田泰三氏は『丸山眞男集』第十巻の解題で、丸山の古層論について、記紀神話からの「基底範疇」抽出作業に「「ぎこちなさ」様なもの」を感じ、歴史家の専門的な仕事の前で、「どれだけの説得力をもちうるか、一抹の危惧」を感じると留保しつつも、この国の歴史の「構造のトータルな変革のためのトータルな認識を獲得すべく構築された仮説」として古層論を評価している。
川崎修氏は、『忠誠と反逆』(ちくま学芸文庫、1998年。原本、筑摩書房、1992年)の解説で、古層論に数頁を割いて批判的に検証しつつ、その積極面を引き出そうと試みている。「丸山氏の数ある論文の中でも、おそらく最高度の魔力的魅力にあふれる作品の一つである。たしかに、この作品には、日本思想史の隠された秘密を暴き出すかのような迫力がある。けれども、他方、そのことは一種の宿命論的な絶望――丸山氏自身はそうとられることを強く否定しているとは言え――と分かち難く結びついているようにも思われる」とその両価性を指摘している。また、「丸山氏の真骨頂は『反本質主義』だったはずである。そのことは、例えば「忠誠と反逆」論文においてはいかんなく発揮されている。すなわち、そこでは、ナショナルな伝統と見えるものの中に、実は葛藤する多様な思想・観念のダイナミクス(アゴーンの契機!)を見るという視点が貫かれていた。それに対して、『古層』論ははるかに『本質主義』的である」と古層論の特異な性格を突いている。ただ、「実体化」を一つの戦略として正当化できる可能性を示唆している。
末木文美士氏は、『日本宗教史』(岩波新書、2006年)の冒頭で丸山の古層論に言及し、「今日あまり評判がよくない」とし、「確かに『例外的といえるほどの等質性』が歴史的に保持されてきたという前提は、今日すでに崩れている」と認めつつ、「しかし、では全面的に〈古層〉という発想を否定できるかというと、それはそれでまた逆の極端に走ることになってしまう」と別の可能性を示す。「言説化された思想の奥に潜むもの」を〈古層〉と呼ぶことは可能であると言う。そして、「アプリオリでなく、しかも我々の現在を制約するような〈古層〉は、それ自体が歴史的に形成されてきたと考えるのがもっとも適当ではあるまいか」と独自の古層論を展開しようとする。
この機会に「歴史意識の『古層』」を私も読み直そうと思っている。