内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ヨーロッパという新たな視点から見られた日本

2022-10-02 20:22:37 | 講義の余白から

 三年生の授業で山川出版社の『大学の日本史』を使うことがある。全四巻のこのシリーズは学術的なレヴェルが結構高くて、授業のメインテキストにすることはできないのだが、内容的にはこれくらいのところで話したいなあと思う。
 例えば、第三巻近世篇の第一章「近世という時代」の「1 日本史のなかの近世」に「ヨーロッパ人の記した日本」と題された一節がある。そこに昨日話題にしたルイス・フロイスの『日本史』への言及がある。その箇所はとても示唆的だ。今週金曜日の授業で紹介する。日本語のレベルはちょっと学部生には高すぎるから、一文一文丁寧に説明するつもりだ。

 これらの史料の特徴として、まず第一にキリスト教の布教という強い宗教的信念をもった人々によって記されていること、第二に彼らにとってまったく異なる世界である日本をみているため多くの誤解や偏見などが含まれていること、この二点に留意する必要がある。しかし、こうした特徴と表裏一体の関係にあるといえるが、なんといっても当時の日本人とはまったく異なる視角から日本社会や日本人をとらえていることを指摘にしておきたい。十六世紀半ば以降、日本の歴史は、ヨーロッパ人という新しい参加者であり観察者をえて、あらたに記述されるようになるのである。
 そうしたヨーロッパ人による日本の記録の例として、ルイス=フロイス『日本史』の一節を次に紹介することにしたい。フロイスはポルトガル生まれのイエズス会士で、一五六三年の来日から一五九七年に長崎で死去するまで、晩年の一時期を除き約三〇年間を日本ですごした。来日後に日本語を習得しており、日本語会話に堪能であった。なお、書名の『日本史』“Histore de Iapam” は、文字通りの「日本の歴史」ではなく、ザビエル来日以来のイエズス会による「日本布教史」という意味として理解すべきものである。

〔史料2〕

 信長は建築作業に従事しており、遠方から司祭(注―フロイス)が来るのを見ると、濠橋の上に立って彼(注―フロイス)を待った。同所では六、七千人以上の人が働いていた。司祭が遠くから信長に敬意を表した後、彼(注―信長)は約二時間、ゆったりした気分で留まって彼(注―フロイス)と語らった。
 彼(注―信長)はただちに質問した。年齢は幾つか。ポルトガルとインド(注―イエズス会の拠点がインドのゴアにあり、フロイスはゴアを経て来日していた)から日本に来てどれくらいになるか。どれだけの期間勉強をしたか。親族はポルトガルでふたたび汝と会いたく思っているかどうか。ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか、どれくらいの道のりがあるのか。日本に留まっているつもりかどうか、と。そしてこれらのあまり重要でない前置きの質問をした後、当国でデウス(注―神)の教えが弘まらなかった時にはインドへ帰るかどうかと訊ねた。これに対して司祭は、ただ一人の信者しかいなくても、いずれかの司祭がその者の世話のために生涯その地に留まるであろうと答えた。ついで彼(注―信長)は、何ゆえ、都に我らの修道会の家がないのかと質問した。そこでロレンツ修道士は、穀物が発芽するに際しては、棘が非常に多く、たちまちそれを窒息せしめた。すなわち、仏僧たちは、ある名望ある人物がキリシタンになると認めるや、さっそく司祭を追放し、デウスの教えの宣布を阻止する手段を尽くした。それゆえ、キリシタンになりたい者は多いが、この妨害に接して延期するのである。ところで、ここに(注―京都)イエズス会の家が一軒あったが、五年前に、司祭は不当にも理由なく同所から放逐されたのだ、と答えた。
 さらに彼(注―信長)は、伴天連はいかなる動機から、かくも遠隔の国から日本に渡って来たのかと訊ねた。司祭は、日本にこの救いの道を教えることにより、世界の創造主で人類の救い主なるデウスの御旨に添いたいという望みのほか、司祭たちはなんの考えもなく、なんらの現世的な利益を求めることなくこれを行おうとするのであり、この理由から、彼らは困苦を喜んで引き受け、長い航海に伴ういとも大いなる恐るべき危険に身を委ねるのである、と返事した。

 この史料で注目されるのは、何よりも織田信長とフロイスとの会話のようすがいきいきと、かつ詳細に記述されている点にある。しかもこれは伝聞や創作ではなく、フロイス自身が日本語で直接、信長と交わした会話なのである。こうした会話が可能となり、さらにその記録が残されたのは、①フロイスが当時の日本社会の身分秩序の外にあったこと、②フロイスが日本語会話に堪能であったこと、③フロイスが詳細な記録を残しうる立場にあったこと、④信長がヨーロッパに対するたいへんな好奇心をもっていたこと、という希有な条件が揃ったことによる。当時の日本人には絶対に記しえなかった、織田信長に関する記述であるといえよう。
 このように、十六世紀半ば以降、日本はヨーロッパと出会い、記録されるようになったのである。この事例で端的に示されるように、当時の日本人が記しえなかった史料が、残されたのである。これは言い換えるならば、ヨーロッパというあらたな視点をとおして、日本をみることができるようになったのである。日本の歴史において、古代・中世とは異なる、近世という時代の一つの大きな特徴としてとらえることができるだろう。