哲学部で哲学を学んでから日本学科に登録するケースがパリのイナルコでは過去に何例かあったし、現在も修士課程に在学している学生の中にもいると聞いている。ストラスブールでも哲学の修士課程を修了してから日本学科に登録した学生が一人おり、現在学部三年生である。その学生から先日、来年春にストラスブール大学哲学部で日本哲学についての研究集会を開こうと博士課程の学生の一人と一緒に企画中なのだが、何らかの形で参加してくれるかとの依頼があった。私でも何か若手たちの役に立てるのならばと二つ返事で承諾した。
ただ、テーマがかなり挑戦的、というよりもほとんど挑発的で、実現するかどうかはまだわからない。というのも、フランスの哲学研究における日本哲学に対する surdité (難聴)を問題にしようというからである。つまり、なぜフランスの哲学研究者たちは日本の哲学にかくも無関心なのか、という問題である。「日本人の友」が何人もいるフランス人哲学研究者でも、本気で日本の哲学に関心をもっている人は数えるほどしかいない、いや、数える必要もないくらいに少ない。
この「哲学的エスノセントリズム」とも名づけるべきフランスに著しい傾向はフランス哲学の宿痾である。ほぼ治療不可能である。そこにきて、フランス哲学をありがたがっている日本人研究者が彼らを煽てなどすれば、これはもう手の施しようがない。確実に死に至る病である。いうまでもないが、本人たちにはまったくその自覚がない。
日本研究者たちがほとんど哲学に関心を示そうとしないのとこれは好一対である。どちらの場合も、ほんとうには〈他なるもの〉に関心がないという点で同じなのだ。その声に対して謙虚にかつ真剣に耳を傾けようという気がない。
この二つの無関心の絶壁に挟まれた谷底を「暗きより暗き道」へと何も照らすものものなく歩いていくことは絶望的に困難である。