毎年二月、「日本の文明と文化」の授業の課題の一つとして、手書きの手紙を学生たちに書いてもらいます。この課題をはじめて出したのは二〇二〇年二月、そのときは思いもよりませんでしたが、コロナ禍による最初のロックダウンのひと月前のことでした。そのとき学生たちが書いてくれた手紙についての感想はこちらの記事を御覧ください。
それから毎年、同じ授業の枠で学生たちに手紙を書かせています。今年で四回目になります。締め切りは三月二日です。その前に二週間の冬休みがありますから、時間は十分にあります。どんな手紙を書いてくれるか、今から楽しみです。
授業では、その準備の一環として、『ツバキ文、具店~鎌倉代書屋物語~』の中から三話選んで、一話ずつ一回の授業で鑑賞させながら、その前後に、古代から現代までの手紙の歴史について、つまみ食い程度に過ぎませんが、解説しています。すでに何度も申し上げていますが、この授業はすべて日本語で行います。
先週、手紙についての授業の初回、学生たちに、「あなたたちは手書きの手紙を書いたことがありますか」とまず聞いたら、三十五名ほどの出席者のうち数名が手を上げてくれましたが、聞いてみると、絵葉書にちょっと言葉を添えた程度のもので、便箋を使って手紙を書いたことがあるという学生は皆無でした。他方、これまで一度も手書きの手紙を書いたことはないという学生が数名いました。他の学生たちはどうなのか追求しませんでしたが、まったく書いたことがないという学生がいたのは予想通りでした。
日本ではどうでしょう。二十歳前後の学生たちで生まれてから一度も手書きの手紙を書いたことがないという人はやはりいるのでしょうか。
かく言う私自身、はて、最後に手書きの手紙を書いたのはいつのことだったかと思い出そうとして、それが十年以上遡ることに気づいて、愕然としてしまいました。もともと筆まめではありませんでしたが、かといって筆不精というほどでもなく、メールが普及する前の二十年あまり前には月に何通か書いていました。それは留学初期のことで、日本の家族や他国の友人と近況を報告しあうには、手紙がもっとも普通の手段だったからです。ところが、メールでのやりとりが日常の習慣になってから、ほとんど手紙を書かなくなってしまいました。それで特に困ったこともありません。
しかし、手書きの手紙でしか伝わらない気持ちもあるでしょう。少なくとも、同じ文面をパソコンで作成してプリントアウトしたものとは明らかに味わいが違うでしょう。ましてや、パソコンの画面に映し出されただけの文面とは。
学生たちには、私もここ十年以上手書きの手紙を書いていないことをまず正直に伝えました。その上で、手紙を自分の手で書くこと、そして筆記用具、インクの色、便箋、封筒なども吟味して選ぶこと、それは貴重な経験になるから、この課題に真剣に取り組んでほしいとこちらの願いを伝えました。
昨日の授業では、いくつか手紙の実例を紹介しました。手書きの写真版でもあればその方がいいのですが、それはなかなかに入手困難ですので、書簡集として書物の形になったものから紹介しました。漱石が芥川龍之介と久米正雄の二人に宛てた有名な手紙を紹介した後、まったく私個人の好みで、西田幾多郎が七十四歳のとき三十九歳の娘静子に宛てた一九四四年十一月十二日付けの手紙の全文を紹介しました。句読点の使い方、改行の仕方、選ばれた言葉、最後の二文に表れた後妻に対する細やかな配慮などに注意を促しました。以下がその全文です。
体はそうわるいと云うのでもない様で安心して居ります、どうか体と心とを大切に油断なく気をつける様に、遠くにいても私の心はいつもいつもお前の傍につきそうています、昼も夜もお前のことを思わない時はありませぬ、私は何時死んでも思いのこすことはないがただお前のことのみ気にかかります、どうか立派に一人でやって行く様に、
女が一人で居るといろいろ思わぬ誘惑が入ったり、いろいろ思いがけない事が起こったりするものだから、心の底の底 からしっかりして、人から指一本さされぬ様に。いかにも私の娘と云われる様に。
これからの日本もどういう風になって行くか中々容易ではないとおもいます。
死ということは何も恐しいことはない、人間は誰もかれも皆死を免れることはできない、長く生きたとてそうよいこともない、死は清き月夜よりも美しい。
少なくも月一度位はそちらの様子でも云って便なさい。しかし二人の名宛にして。そうでないと気が曲るから。
『西田幾多郎書簡集』岩波文庫、2020年、252‐253頁。