内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

海外での「京都学派」という呼称の使われ方について ― 源了圓(1920-2020)の場合

2023-02-23 23:59:59 | 哲学

 先日、修士論文を指導している学生から、論文の進捗状況を知らせるメールと序論の草稿が送られてきた。その中に「京都学派の一人〇〇によれば」という一文があり、〇〇のところには聞いたこともない名前がアルファベット表記で(草稿自体フランス語だから、これは当然のことだが)記されていた。脚注にも文献表にも当該の著者や著作あるいは論文が見当たらないので、草稿にコメントを付して返信するとき、「これはいったいだれのこと?」と質問を付け加えた。
 本人からの回答で、名前の表記に誤りがあり、引用されていた著者は源了圓(1920-2020)であること、論文は “The Symposium on ‘Overcoming Modernity’,” で Heisig, James W. and John C. Maraldo (eds.), 1994, Rude Awakenings: Zen, The Kyoto School, and the Question of Nationalism, Honolulu: University of Hawai‘i Press に収録されていること、引用は当該論文から直接行われているのではなく、スタンフォード大学の Stanford Encyclopedia of PhilosophyThe Kyoto School の頁からの孫引きであることがわかった。
 確かにその頁には、源了圓の上掲論文が次のように引用されている。

One scholar of the Kyoto School writes in this regard: “The keynote of the Kyoto school, as persons educated in the traditions of the East despite all they have learned from the West, has been the attempt to bring the possibilities latent in traditional culture into encounter with Western culture” (Minamoto 1994, 217).

 源了圓は、京都帝国大学文学部哲学科に1942年4月に入学するが、健康上の理由とその後の学徒出陣で学業を中断、復員後復学、1948年に京都大学文学部哲学科を卒業している。名著『徳川思想小史』(中公文庫、2021年。初版、中公新書、1973年)の巻末に付された小島康敬による解説によると、戦中、京大で受けた授業は入学当初の一年間だけであったが、この一年間を「私の学生生活の中でいちばん幸せなときであった」と後日述懐しているという(源了圓「私の歩んできた道」『アジア文学研究』別冊3、1992年)。
 授業ではとりわけ田辺元に惹かれ心酔した。京大時代に源に大きな影響を与えたもう一人が西谷啓治である。これも戦中のことである。戦後源が復学して卒業するまで、西谷はまだ公職追放中(1952年に復帰)であったから、その間に指導を受けたはずはない。もっとも学外で私淑したということはあったかもしれない。確かに、源はニヒリズムの克服をニーチェとドストエフスキーをめぐって論ずる卒論を書いているから、そこに西谷の影響を見ることができるかも知れない。
 大学院に進学し、その傍ら出版社に身を置く。編集者と研究者の二重生活は厳しく、結局、研究者の道を選択し、いくつかの研究会の助手や非常勤講師で糊口を凌ぎながら、自分の研究分野を日本思想史へと定めていく。
 さて、源了圓は「京都学派」の一人なのだろうか。西田幾多郎か田辺元、あるいは両者の指導を受けた直弟子、その直弟子から京大で指導を受けた哲学研究者までを含めて「京都学派」と呼ぶならば、源了圓を「京都学派」の一人に数えることも間違いとは言えないが、私はこうした Kyōto-gakuha という呼称の大風呂敷な使い方にきわめて批判的である。それは肯定的であっても否定的であっても同じである。なぜならどちらの場合も非常にイデオロギッシュだからである。
 ろくに原テキストを読みもしないでレッテルを貼りたがる傾向は英語圏の日本哲学研究にとくに著しい傾向であるように私には見えるが、これは偏見であろうか。
 それはともかく、源了圓の業績は、京都学派云々とはまったく独立に評価・検討・継承されるべきであるというのが私の考えである。