内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「ユク河」考 ―『方丈記』はなぜ水害については語っていないのか

2023-02-11 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した『発心集』(角川ソフィア文庫、二〇一四年)の浅見和彦氏による解説を読んでいて、ふと気になったことがあるのでここに記しておく。
 浅見氏は同書の解説の中で、「地・水・火・風の四大種による災害のうち、長明は地・火・風の三つは『方丈記』中で話題として取り上げているものの、なぜか水災についてはふれていない」と指摘している。長明がその辺りに住んでいたこともある鴨川は当時度々氾濫し、その被害は甚大なこともあった。長明は『方丈記』の中で卓越した描写力で五大災厄 ― 安元三年(一一七七)の大火、治承四年(一一八〇)の辻風、同年の福原遷都、翌養和元年(一一八一)ごろから始まった養和の大飢饉、元暦二年(一一八五)の大地震 ― を活写しているだけに、当然見聞きしたことがあると推測できる鴨川の水災についてなぜ言及しなかったのか、確かに気になるところである。
 この疑問に関して、浅見氏は、『方丈記』の巻頭を引いて、「静かに美しく流れる川の姿を書きとめている」と見なし、「おそらくそうした『方丈記』の基調と水害、水難は相容れなかったのであろう。長明は四大種の災害のうち水災をはずしていたのである」と推定されている。
 ここを読んで、果たしてそうだろうかと疑問に思い、にわかには納得できなかった。というのも、かの有名な巻頭の川の描写「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて……」から、「静かに美しく流れる川の姿」を私はイメージしていなかったからである。逆巻く急流とまではいかないにしても、「静かに美しく流れる川」というイメージは巻頭の描写から自ずと引き出せるとは思えない。
 長明は、現実のある河をイメージしながら冒頭を書いたのだろうか。簗瀬一雄氏は角川ソフィア文庫版『方丈記』の補注一で、『論語』の子罕篇と『文選』(第十六)陸士衡の歎逝賦一首幷序から、それぞれ川を描写した箇所を挙げ、『方丈記』の冒頭はそれらに依拠していると推定されている。さらに、『万葉集』に収められた柿本人麻呂歌集の「巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人われは」(巻七)は、『拾遺集』にも見え、同集は長明が読んだ歌集であるから、この歌との関係を強調する説もあると付け加えている。しかし、補注二で、「世の無常を水の泡にたとえていうのは、前項の歌をはじめとして、きわめて多い。そしてこれらは、仏典を根拠としている」と注記されている。
 長明はこれらの典籍を念頭に置いて『方丈記』の冒頭を書いたとすれば、「ユク河」は長明がその眼で見たことがある川をイメージしたものではなく、世の無常を語るときしばしば用いられた伝統的イメージに従ったに過ぎないということになる。
 ところが、『新編日本古典文学全集』四十四巻『方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』(小学館、一九九五年)で神田秀夫氏は、頭注の冒頭に、「「ゆく河」の影像は作者熟知の賀茂川で得られたものという説を三木紀人氏から聞いた記憶あり。卓見と思う」と記されている。他の研究者から聞き及んだ説を紹介しているだけで、論拠とは言えないが、長明が熟知していた鴨川をイメージしながら『方丈記』の冒頭を書いたという説もまったくの無根拠として捨て去ることもできないとは言えそうである。
 もしこの説を支持するとなると、上に見た浅見氏による「ゆく河」のイメージとは一致しなくなる。そして、その「静かに美しく流れる川」のイメージと水害・水災・水難のイメージとが相容れないから、水によって引き起こされた災厄は『方丈記』では言及されていないとする推論は成り立たなくなる。
 岩波の『新日本古典文学大系』三十九巻『方丈記 徒然草』(一九八九年)の佐竹昭広氏の脚注にも触れておきたい。「河の駛流(しる)して、往きて返らざる如く、人命も是の如く、逝く者は還らず」(法句経・無常品)に拠る。「ユク水」と言わず、用例の稀な「ユク河」の語を用いているところから、法句経に依拠したと推測する」と典拠を推定されている。
 確かに、常識的に考えれば、往きて返らぬのは水であって、川ではない。それゆえ「ユク河」は用例が稀という佐竹氏の指摘は首肯できる。しかし、それだけでは、『方丈記』がなぜ水害については語ることがなかったのかという問いに対する答えには繋がらない。
 それに、浅見氏が『発心集』の解説で言及されているように、同書には武蔵国入間川の洪水の話(四―九話、武州入間河沈水の事)が収められており、その描写の筆の冴えは『方丈記』のそれに劣らない。
 『方丈記』に水災の記述がないのはなぜかという最初の疑問に対する答えは結局得られないままだが、ひとしきり芋蔓式読書を楽しむことができたことで今日はよしとする。