内的自己対話-川の畔のささめごと

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鴨長明に対してニコライ・ベルジャーエフによる葛藤型一と二の区別を当てはめることができるか

2023-02-12 12:36:20 | 読游摘録

 佐竹昭広氏は、そのお弟子さんの一人によると、大学の授業でしばしば文学研究にとっての哲学の素養の必要性を強調されていたそうである。確かに、氏の著作には骨太な哲学的思索がその背景にあることが読み取れる箇所が少なくない。哲学的考察が前面に打ち出され、そこからやおら日本の古典に対してそれが適用されることもある。その典型を『方丈記 徒然草』(新日本古典文学大系)の巻頭の序に見ることができる。
 そこで意表をつくようにまず言及されるのは、ロシアの哲学者ニコライ・ベルジャーエフ(1874‐1948)による人間の孤独と社会についての分析である。書名は挙げられていないが、佐竹氏による要約からして、『孤独と愛と社会』を参照していることはほぼ間違いない。同書の邦訳は、1954年に氷上英廣訳が社会思想社から現代教養文庫の一冊として刊行され、1960年代に白水社版著作集の第四巻にも氷上英廣訳が収められている。さらに、1982年に同じく白水社から『哲学思想名著選』の一冊として刊行されている。この三者が同一訳か後二者がそれぞれ先立つ訳の改訳なのかは調べる手立てがないのでわからない。それはともかく、佐竹氏はこのいずれかの版を参照したことは間違いない。
 ベルジャーエフによる葛藤型一と二の区別が興味深いので、少し長くなるが、佐竹氏の要約を引用する。ちなみに、仏訳 Cinq méditations sur l’existence. Solitude, société et communauté, traduit du Russe par Irène VILDÉ-LOT, Paris, Aubier, Éditions Montaigne, Collection « Philosophie de l’esprit », 1936, 209 p.こちらのサイトから無料でダウンロードできる。 

その一は、孤独であって、社会的でない人間。この型の人間は、社会的環境に全然、あるいはごく僅かしか適応していない。多くの葛藤を体験し、非調和的である。彼は自己を取り巻いている社会的集団に対してなんら革命的傾向を示さない。彼は簡単に社会的環境から孤立し、逃避し、自己の精神生活と創造をそこから引き離す。抒情詩人、孤独な思想家、根を持たない耽美家はこれに属する。その二は、孤独であって、社会的であり得る人間。これは預言者の型である。彼は決して社会的環境、世論と調和することがない。預言者は世に容れられざる者であり、激しい孤独と寂寥を体験する。場合によっては全周囲から迫害される。しかし、預言者が社会的でないとは言えない。むしろその反対である。彼は常に民族と社会に批判を加え、それらを裁き、しかも常に民族と社会の運命の内に没する。ベルジャーエフは、右の二つを「葛藤型」と名付け、孤独とは無縁な人々、「調和型」の人間と区別した。
 顧みて中世という時代は、葛藤型の思想家、文学者が輩出した時代であった。葛藤型の二として、私たちは直ちに法然、親鸞、日蓮など鎌倉仏教の代表者たちの名を挙げることができる。葛藤型の一には、西行、長明、兼好などの数々の文学者がいる。後者の孤独は、中世では必然的に仏教的厭世思想と結び付き、彼らに遁世閑居という隠遁の生き方を選ばせた。遁世閑居の精神生活と創造は、西行の山家集を生み、長明の方丈記を生み、兼好の徒然草を生んだ。

 こうした二分法は、問題を明確化するのに有効なときがある一方、他方で個々の事例を図式に割り切りすぎ、現実のニュアンスを取り逃がすことがある。葛藤型の二に、法然、親鸞、日蓮を分類するのは一応承認するとして、道元の場合はどうであろうか。一に分類できないのは言うまでもないとして、二に分類することも躊躇われる。
 佐竹氏が葛藤型の一に分類している三人も同断には論じられないと私は思う。『方丈記』に見られる五大災厄の卓抜な描写は、長明が単に傑出した文章家であるだけでなく、鋭い観察眼をもった卓越した「災害レポーター」でもあることを示している。これは人間社会に対する並々ならぬ関心なしにはありえないことである。「社会的環境から孤立し、逃避し、自己の精神生活と創造をそこから引き離」した人間にどうしてあのような描写ができたであろうか。それは『発心集』に見られる人間観察力についても同様である。
 長明は、葛藤型の一に収まるにはあまりにも鋭い観察眼を備えていた。しかし、他方、社会に対して積極的に批判を行うにはあまりにも実人生で失望と幻滅を味わい過ぎたがゆえに、葛藤型の二のような社会にコミットする闘争的人生を送ることもできなかった。この意味で、一と二の狭間にこそ長明の生涯の境位はあったと言えるのではないだろうか。