内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パッとしない心の観察記録でも書き続けることの私にとっての意味

2023-02-09 23:59:59 | 雑感

 ちょっと、ボソッと独り言のようなツマラナイ話です。
 水泳を二〇〇九年八月から二〇二一年六月まで十二年近く続けていたとき、日によっては、ちょっと疲れていたり、気分的に落ち込んでいたりして、プールに行くのが億劫になったこともありましたが、それでも泳ぎに行って、泳いだ後に泳いだことを後悔したことはただの一度もなく、いつもやっぱり泳いでよかったと心地よい疲れとともに思ったものでした。
 一昨年から始めたジョギングについても同じことが言えます。脚に疲れや痛みを感じることがジョギングを始めた当初はわりとよくありましたが、それでも無理にならない程度に走ると、やはり走った後には気分がすっきりしました。それは今も変わりません。
 最近、ネット上で、ジョギングを休めない人たちに警鐘を鳴らすフランス語の新聞記事を読みました。簡単にまとめれば、ジョギングによって得られる「疑似」達成感によって、本当に向き合うべき問題から逃げている自分をごまかしている場合があるということです。
 自分に当てはまるかどうか自問してみましたが、それはないと思います。あれこれ気晴らしや現実逃避の手段を考えることなく、ただ単純に走るだけで毎日一回気分がリセットできているだけで満足しています。走る前後には普通に仕事をし、平凡きわまりない日常生活を送っています。
 さて、このブログはどうでしょうか。運動と同じような効果が得られているかというと、それはちょっと微妙です。
 書きたいことがあって書くときには、自ずと「筆が走り」ますが、気が乗らない日も確かにあり、それでも書くのは、休みたくないからという以上の積極的な理由があるのかどうか、続けているという自己満足が得たいがために続けているだけではないのか、と自問せざるを得ません。そして、これらの問いを二度と繰り返すことがないほどにきっぱりとした答えを出した上で、続けていくことができる状態にも今はありません。
 現時点で辛うじて言えることは、そうしたパッとしない自分の心の状態の観察記録を残すことも、他の人にはまったく無意味でも、私自身にとっては、そのような心に支配されないための一手段ではあるということです。