内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「育ち」ということについて ― 老いの繰り言、そして若き学生たちへの願い

2023-02-04 19:24:41 | 雑感

 まず、愚痴です。聴いてくださいますか。
 二月一日、所属する学部で私が数年来関わっている日本への留学希望者の書類審査の来年度(二〇二三/二四年度)に関する結果が国際交流課から当該学生たちに一斉に通知されました。その結果に対する応募学生たちからの反応を受けて、ちょっとため息交じりに感じてしまったことがあります。
 諸方への差し障りがないように具体的状況の詳細はいっさい省略します。まず断っておきたいことは、学生たちの反応の違いは必ずしも彼女ら彼ら自身の責任ではないということです。それに、こんな愚痴は、時代に取り残された意固地な老教師の、偏見に満ちた、まさに老いの繰り言に過ぎないと承知の上で申し上げます。一言でいうと、「育ち」の違いを感じるのです。
 それは、しかし、いわゆる家柄とか親の社会的地位とか経済的豊かさによって決まるもののことではありません。もっと一般的で基本的なことです。幼少期からどのように育てられてきたか、基本的に人を信じることができるか、自分のことを負の面も含めて正直に話せるか、他者に配慮した言葉遣いができるか、などです。
 これらのことは知的能力とまったく無関係ではありません。成績の悪い学生たちの中に不愉快な態度を取る学生が少なくないことはまぎれもない事実です。しかし、「頭が良い」ことと「育ちが良い」こととはまったく別の次元に属する問題です。
 この両者のどちらも備えていない学生たちはほんとうに気の毒です。与えられた状況の中でなぜ自分が適切な行動ができないかわからないからです。
 こんな図式的な割り切り方自体が不当だという反論はもちろんあるでしょう。それは認めます。その上で言いたいことがあります。
 けっして全否定的な結果ではないのにまず文句を言う学生、「それを言う前にまずこう言うべきではないですか」と言いたくなる反応をする学生がいる一方、第三志望に割り振られたという結果にショックを受けて多少は取り乱した発言をしても当然な場面で、「だいじょうぶ? がっかりしていない?」とこちらが聞くと、自分の失望を正直に表現でき、かつ礼節と感謝を忘れず、前を向こうとする学生もいます。それらの学生たちに同じ日に接したことで、この違いはどこから来るのだろうと考えてしまったのです。
 とはいえ、私が願書作成に関わった学生たちは全員日本への留学生として選抜されたのです。だから、さして深刻なケースはないのです。基本、みんな喜んでいるのです。
 最後に学生たちへ一言許されたし。
 つべこべ言うのは君たちの権利だ。だから私はそれを聴く。しかし、君たちには見えていないことで私には見えていることがあるのだ。その上で私は君たちにアドヴァイスしている。君たちの視野はまだ狭い。それは当然のことで、非難されることではない。ただ、相手の言うことの是非を判断する前に、まずその人の話に注意深く耳を傾ける謙虚さをもちなさい。この謙虚さが君たちの未来をより豊かなものにすることを私は保証する。