内的自己対話-川の畔のささめごと

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思想の息吹を伝える翻訳の格調について ― 相原信作訳『神の慰めの書』のこと

2023-02-26 15:55:45 | 読游摘録

 解釈の前提として本文の確定が重要な作業になる古典の場合、何世代にも亘る研究の積み重ねによって旧版が新版によって取って代わられ、学問的研究の基礎としては新版に拠ることが原則となる場合は少なくない。
 異端判決後数世紀に亘ってほとんど埋もれていたエックハルトの中高ドイツ語テキストの場合、写本群の真正性及び本文の確定が極めて困難かつ微妙な問題であることはよく知られている。
 しかし、この文献学的な問題とは別に、テキストの受容史という問題がある。それは最新の校訂版が出版される前の旧版の流布によってその思想が広く知られるようになった場合、特に重要である。エックハルトの場合、ドイツ語著作に関しては、厳密な校訂版であるクヴィント版の第一分冊が1936年に刊行される前は、1857年に刊行されたプファイファー版が一世紀近くの間エックハルト研究の直接資料であったばかりでなく、このプファイファー版に基づいた現代ドイツ語訳でエックハルトの著作にはじめて接し、衝撃を受けた思想家たちも少なくない。
 もう一つの問題は翻訳の問題である。学問的な厳密さを第一に考えるならば、当然のこととして、最新の研究成果に基づいた校訂版に依拠するのが原則である。しかし、そのことはその翻訳の質とは別の問題である。最も厳密かつ最新の校訂版に基づいた翻訳が優れた翻訳であるとは限らないし、校訂には不備がある旧版に基づいた翻訳が翻訳の質において劣るとは限らない。
 特に、語学的に原文に忠実であるかということだけでなく、思想内容を伝えるのに翻訳言語における格調が重要な意味をもつ場合、校訂の厳密さという問題を超えて、翻訳者がどこまで原著者の思想の息吹を摑み得ているかどうかが決定的に重要になってくる。
 この点から見て、相原信作訳『神の慰めの書』は不朽の名訳だと私は思う。相原訳の素晴らしさについては、講談社学術文庫版の上田閑照による委曲を尽くした解説を参照されたい。1949年に初版が刊行され、1985年に学術文庫版として復刊されるに至る経緯は訳者自身による「学術文庫」のためのあとがきに詳しい。それからもすでに38年経っているわけだが、いまだにこの文庫版が新本として入手可能なのは、ずっと読みつがれているからだろう。喜ばしいことだと思う。
 一方、「学術文庫」のためのあとがきの最後の数行は、今もなお、いや、今なおのこと、重く痛切に響く。

七百年前においては、一体だれが、科学技術の進歩による人類滅亡の可能性などを想像できたか。それでもなおこれらの先駆者は、「私よりも私に近く在す神」を忘却して暴走する危険を警告してやまなかった。今やこの危険は極限に達し、営々数千年の文明の進歩はその瞠目すべき成果そのものによってそれを産み出した人類もろとも自らを消去せんとしている。願わくは、この恐るべき文明の矛盾にもてあそばれ傷つき悩む人々が、近代の受胎期に早くもこのような文明の危険についてその所在と救いとを示した先駆者を再発見せられんことを。拙訳が少しでもそのことに役立つなら幸いである。