11月1日の諸聖人の祝日前後の一週間の休暇も今日日曜日が最終日。休暇直前の週に行った試験の採点作業を今日になって午前四時から開始する。休暇中、研究発表の準備作業を優先し、採点作業はずっと後回しにしていた。途中、ジョギングと入浴と昼食を挟んで、午後四時に三年生の試験の一つの採点作業を終えることができた。
この試験は、オンラインで行った日本語の小論文であった。答案は二九枚。最低制限字数は六〇〇字。上限は一応八〇〇字としたが、それを超えても減点の対象にはならない。最低制限字数を下回っていた答案が二枚あったが、その他はこの条件はクリアーしていた。最長は二〇〇〇字。学年トップの学生の答案である。ただこれは書きすぎ。長いだけに文法的ミスも多いし、構成にも難があるから、必ずしも最高得点とはならない。
授業でその作品を考察対象として取り上げた新海誠監督の文章二つを試験一週間前に与え、それを試験前に予め読んでおくように指示しておいた。その上で、「それらの文章を参照しながら、映像表現と文章表現の違いと両者の関係について自分の考えを述べよ」という課題を与えた。
新海誠の文章とは、彼自身が小説化した『秒速5センチメートル』の「あとがき」と『言の葉の庭』の「あとがき」からの抜粋である。
映像で表現できることと、文章で表現できることは違う。表現としては映像(と音楽)の方が手っ取り早いことも多いけれど、映像なんかは必要としない心情、というものもある。
『秒速5センチメートル』「あとがき」より
さて、そのようにうきうきと取りかかっていた執筆作業であるが、当たり前にというかなんというか、楽しさは持続しなかった。映像のほうがどうしたって優れている、または適している表現もあることに、すぐに気づくからである。
たとえば「情緒」のようなもの。街の夜景の絵を描くとする。そこに、切なさを含んだ音楽をかぶせる。どのタイミングでも良いので、どこかの窓の光をひとつ灯す、あるいはふいに消す。それだけで、情緒としか呼びようのない感情を観客に抱かせることが、映像ならばできる。情緒とは要するに「人の営みがかもしだす感情」だから、窓の灯りひとつで、映像ならばそれを喚起させることができるのだ。では小説でこれに比する表現はどうすればよいのだろうかと、頭を抱えることになる。
長くなるので詳しくは書かないけれど、他にもメタファー(暗喩)の類は、映像のほうが雄弁たり得ることも多い。1カットの波紋のアニメーションだけで、原稿数枚を費やしても足りない感情を伝えることが、時にはできる。
『言の葉の庭』「あとがき」より
この二つの抜粋については、授業でもひと通りは説明したが、詳しくは立ち入らなかった。それだけに、学生たちがこの文章をよく理解できているかが採点の一つのポイントになる。それを無視して自説を述べ立てただけの答案には合格点はあげない。第二の採点ポイントは、新海誠の所説に同意するにせよ、反論するにせよ、具体的に論拠を挙げて議論を構成できているかどうかである。第三のポイントは、内容とはかかわりなく、日本語としてどれだけよく書けているかである。
実際の採点は、さらに細かく八つの採点基準を設けて行う。今日のところはすべての答案の添削とコメントを終えたところで終了とした。ここまで終えておけば、点数付けは簡単で、一時間もかからない。それに、一気に点数をつけてしまわずに、少し時間をおいてからのほうが全答案をより公平目で採点できる。
文章を書かせるとよくわかるのは、問題に対するセンスと感性、議論をバランスよく構成できる思考力、そして、言うまでもなく、問題を適切に論じられるだけの日本語能力があるかどうかである。この三拍子が揃った答案はなかなかない。