語感は同じ母語の話者たちの間であっても一様ではない。それでも、日本語を学んでいるフランス人学生たちと日々接していると、日本人同士ならほぼ誤解の余地はないと思われるところで、彼らが語感をうまくつかめていないと感じることはしばしばある。それは名詞、動詞、形容詞、副詞、助詞、いずれでもある。
例えば、発表でやたらと終助詞「ね」を使いたがる学生が毎年必ず何人かいる。自分の発言について聞き手からの暗黙の同意・承認を求めるときに使われる(もちろん他の用法もあるが)この「ね」を頻用すると、日本語を母語とする聞き手は、必ずしも同意が自明ではない場合には、押し付けがましく感じるだろう。
例えば、昨日まで穏やかな天気が続いていたのに、今日、急に気温が10度も下がったとしよう。そんなときに誰かと出会い、その人が「急に寒くなりましたね」と言うのを聞いて違和感を抱くことはまずないだろう。しかし、ある人のことを非難して、「すべてあいつのせいですよね」と誰かが私に同意を求めるように言うのを聞いて、私がそれに同意できないときは、それだけ強く反発を覚えるだろう。いったい何を根拠にこっちも同じ意見だと想定しているのかと不可解なときもあるし、無神経あるいは不遜に感じられることさえあるだろう。
使っている学生本人は「ね」がそんなニュアンスをもってしまうことなどつゆ知らず、聞き手が自分と同じように感じていると想定して、いわば共感の表示として使っていることが多い。悪気などもちろんない。発表内容の理解の妨げになることもない。しかし、そもそもプレゼンテーションで使う必要はない。
で、原則、「使うな」と助言する。自分の考えに相手が共感あるいは同意してくれるかどうかは、発表後の質疑応答を通じて明らかにすべきことで、発表の段階で相手の同意あるいは共感を無根拠に前提することは差し控えるべきだからである。