島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書、2019年)と『死生観を問う 万葉集から金子みすゞへ』(朝日選書、2023年)とには電子書籍版もあり、授業の前日の火曜日に即購入できた。ところが、この両書に先立つ『日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ』(2012年)は同じ朝日選書として刊行されていながら、なぜか電子書籍版がない。この三冊は今後教材として活用したいという思いもあり、紙版も Amazon.co.jp に同日発注した。驚いたことに、注文のタイミングがよかったのか、金曜日にはもう日本から届いた。送料は安いとは言えないが、これだけ速く届いたし、今はユーロが円に対してとても強くて相対的に少ない出費で済んだから、むしろいい買い物だったと思っている。
今日土曜日は『日本人の死生観を読む』に読み耽った。先を急いで読んだのではない。同じ箇所を何度も読み直しながら、少しずつ読み進めた。それだけ立ち止まって考えさせられた。本書の冒頭には、「現代人が自らの死生観を問い直す手がかりをいくつも提供している」作品として、宮沢賢治の「ひかりの素足」が、「風の又三郎」や「よだかの星」とも関連づけながら、 十ページあまりに亘って詳しく紹介されている。
さっそく手元にある『新修 宮沢賢治全集』(筑摩書房、1979‐1980年)第八巻に収録された同作品を久しぶりに読み返した。死生観の表出として注目に値するということを抜きにしても、その鮮烈をきわめた雪嵐の風景の幻想的な描出には感嘆せざるを得なかった。賢治自身は同作品について、その草稿表紙に赤インクで「《凝集を要す/恐らくは不可》」「《余りに/センチメンタル/迎意的》」と記して辛い点を付けているが、読む者の心に持続的に深い印象を残さずにはおかない作品だと思う。