内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

死生観の歴史的考察から出発し、テキスト分析を経て、自分に向き合う実存的な問いへ

2023-11-15 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の授業形式はかなりうまくいった。まず授業の主題について主旨説明をしてから、テーマごとに六つの質問を提示し、その答えを探しながら私の説明を聴くように学生たちに指示した上で、一つのテーマについて十五分くらい説明する。それから学生たちに十分ほどで質問に対する答えを書かせる。日本語でもフランス語でもよしとした。要は内容をよく理解することにあるからだ。このパターンを三回繰り返したところで授業終了時刻となった。一つ残されたテーマについては、昨日の記事にリンクを貼ったサイト「toibito トイ人」に自分たちでアクセスして、島薗進氏へのインタビューを最後まで読んだ上で、質問への回答を書いてくることを宿題とした。
 当のインタビューでの島薗氏のインタビュアーへの回答は、それぞれが本来は大きな諸問題について、かなりざっくりとした、あるいは極度に単純化された説明になっていて、それらを学生たちに鵜呑みにされては困るので、その点については説明の過程で再三注意を促した。彼らがどう受けとめたかは来週にならないとわからないが、授業中の印象は悪くなかった。予想以上に集中して私の説明を聴いてくれた。知識を提供することではなく、自分たち自身で問題を考えるきっかけを学生たちに与えることが今日の授業の目的だったが、それはかなりよく達成されたように思う。
 日本人の死生観というテーマを扱うにあたり、さしあたり三つの論脈を分けて考える必要がある。
 一つは、死生観を生と死に関する基本的な考え方と単純に規定した上で、その内容の時代的な遷移を追う歴史的考察の論脈である。この論脈では、死生観という言葉が使われているかいないかに関わりなく、生と死に関する基本的な考え方が表現されているすべてのテキストだけでなく、その考え方を表現している、あるいはそれに基づいている民俗・慣習・儀礼等も考察対象となる。
 一つは、死生観という言葉そのものが使用されている文脈そのものにおいて、その言葉が何を意味しているかを考察するテキスト分析である。と同時に、そのテキストがどのような時代状況の中で書かれ、それとどのような関係にあるかも考察対象となる。島薗氏が指摘しているように、「死生観」という言葉が一般に使用されるようになるのは加藤咄堂の『死生観』(井冽堂)が刊行された明治三七年(一九〇四)以降のことである。つまり、二十世紀に入ってからのことである。それ以降、「死生観」という言葉はどのような意味を担わされてきたのか、「死生観」という語をタイトルに含んだ書籍や死生観という語を多用する書籍が今日に至るまでかくも盛んに日本で出版され続けているのはなぜかという問いもこの論脈には含まれている。
 そして、もう一つは、自分自身の死生観を自ら問うという論脈である。上掲二つの論脈の考察を経た上で、自らに自らの死生観を問うという、いわば実存的考察がここでは求められる。この三つ目の論脈は授業で取り上げる時間は残念ながらないが、授業を通じて学生たちが自らに自らの死生観を問うところまで導くことができれば、この授業の目的は達成されたことになる。