内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思想史への存在論的観点の導入の試み ―「遊び」のコスモロジー

2023-11-10 23:59:59 | 講義の余白から

 11月1日水曜日の「諸聖人の祝日」前後の一週間の休暇が明けて最初の週日が今日金曜日で終わる。
 休暇前には、二時間の授業がそれぞれ午前と午後に一コマ、その間に二時間のオフィスアワーがあって、午後の授業が終わるのは四時だった。その時になってようやく解放された気分になった。
 ところが、休み明けからはもう二年生向けの午後の授業を担当しないので、正午に午前中の一コマが終わると、すでに解放感があり、単に拘束時間が二時間減ったという以上に気分が軽くなった。
 正午からのオフィスアワーには、来年度の日本留学の件について面接を希望していた学生二人が順に来て、さらにもう一人日本留学の願書作成についてのアドヴァイスを受けにきた学生もいて、その学生が帰ったときには二時を少し回っていた。その後に授業がないから時間を気にせずに話せた結果である。
 午前中の授業では、近代日本の民主主義的思想の近世における萌芽というテーマの下、江戸時代の会読について前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー、2018年。初版、平凡社選書、2012年)に主に依拠しながら話した。本書を授業で読むのはこれで五年連続になる。パワーポイントは年ごとにヴァージョンアップされ、二回に分けても話しきれないほど内容的には充実させることができている。
 本書に引用されているロジェ・シャルティエの『読書の文化史』、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は、引用箇所以外からもフランス語原文で参考になる箇所を紹介する。同じく本書に引用されているホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の一節の仏訳も示す。これらの箇所への学生たちの関心は高い。
 授業では、ホイジンガとカイヨワによって開示された遊びの文化史的意義を会読の場合に適用する前田書の議論の枠を超えて、前田書では言及されていないオイゲン・フィンクの『遊び―世界の象徴として』(Spiel als Weltsymbol, Kohlhammer, Stuttgart, 1960)の仏訳 Le jeu comme symbole du monde, Les Éditions de Minuit, 1966 からもかなり長い引用する。なぜなら、世界内存在として世界へと開かれた人間とその世界との間のダイナミックな表現的関係の変容の場として遊びを捉えたフィンクの観点から視ると、遊びとしての会読がなぜ参加者たちの間に関係変容を引き起こし、その変容が幕末の志士たちの「横議・横行」(藤田省三「維新の精神」参照)へと繫がっていったかをより説得的に説明できるからである。
 このアプローチは、授業の枠を超えて、思想史への存在論的観点の導入の試みでもある。