上田正昭の『死をみつめて生きる』(角川選書、2012年)のなかに、「タマとタマシヒ」と題された節があって、その冒頭の段落で両者の違いがこう説明されている。
「魂」という漢字をヤマト言葉ではタマともタマシイともよんで、一般的には同義として理解されている。しかし[…]目の視力が衰えた状態をメシヒというように、タマシイはタマの衰微を本来は意味していた。衰微したタマシイを振起することが「タマフリ」でもあった。
ところが、私の手元にある十冊の古語辞典のなかに、タマシイにこのようは語義を認めているものは一冊もなかった。『古典基礎語辞典』(大野晋編、角川学芸出版、2011年)は、「たま【魂・霊】」を以下のように説明している。
タマ(玉)と同根。古くは自然物、特定の器物などの内に宿って、人間を見守り助ける働きをなす目に見えない存在。いわば精霊。
その精霊であるタマ(魂)が人間の体内に宿ると、精神的な活動をつかさどると考えられた。このタマは体内から抜け出して自由に動きまわり、他と交渉をもつことができる遊離霊で、肉体が滅びてもこの世にとどまって人を守るとされた。人はタマが肉体から離れないように「鎮魂祭たましずめのまつり」を行い、タマを揺り動かすことで活力を衰えさせないようにするため「霊振りたまふり」の儀式を行った。
同語義にタマシイ(魂)があり、このほうが用例数も多く、『和名抄』『名義抄』『日葡辞書』などの古辞書にも掲げられている。またタマシイは、後に派生して「思慮分別」「才覚」「性質」などの意味も表すようになり、使用範囲が広がった。
上田氏が指摘するような「タマの衰微」という意味をタマシイには認めていない。私には上田氏の推論はいささか短絡的に思われるし、このような意味をタマシイに認めなくても、上掲の辞書の記述のように「タマフリ」の意味は説明できる。
タマ(タマシイ)は、人間の体内に宿るとき、それだけで自足しているような安定的な実体ではなく、いつまた体外に抜け出してしまうか知れず、体内でその活力を保つためには、単に祭儀として行われる魂振りだけではなく、日常的な配慮と世話が必要なのだろう。こう考えることはけっして荒唐無稽な迷信ではないと私は思う。