今日の午前中、いつものプールで泳いだ後、午後は時間割作成に集中するために、買い物など雑用を済ませ、午後二時から時間割作成開始、夕食もそこそこに、午後十時過ぎ、一応完成させました。
作成にはエクセルを使うのですが、単に科目を表に嵌め込んでいくだけではなく、できるだけキレイに見やすくしようと、学年ごとに色を変えたりと、いろいろと気を使いました。
しかし、むしろここからが長いのです。この作成の段階ではまだ入手できていない情報もあり、その情報次第で変更を余儀なくされることもしばしばです。
それらの情報はこちらではさしあたり制御しようもないので、まずはこの第一案を日本学科の教員たち・教務課・授業を共有している他学科などに送り、誤り・不都合等がないかチェックしてもらうのが次のステップです。
そして、さまざまな修正を積み重ね、最終案が固まるのは、だいたいいつも後期開始直前になります。つまり、これから二ヶ月間ほど、何度も手直しを繰り返すのです。
もしこの「楽しくてしかたがない」作業にご興味があり、代わりにやってみてもいいなあという方がいらっしゃったら、いつでもご連絡くださいね。
今朝は午前八時まで「深夜営業」でした。店じまいもそこそこに、あたふたとシャワーを浴び、自転車でキャンパスに向かいました。九時から正午までの三時間の授業を終え、教員室で一時間休憩し、小さな会議に出てから帰宅。疲れました。今日はもう何もする気になれません。
明日・明後日の週末は、学科長として最も大切で「楽しい」仕事である時間割作成です。一月第三週から始まる後期の時間割作成です。使える教室、各クラスの学生数、教員たちからの希望等いくつもの条件を考慮しながら、すべての授業が齟齬なく一つの時間割に収まるまで、五十コマほどの授業をパズル・ゲームのピースのように繰り返し移動させます。このうんざりするような作業を数時間続けていますと、仕舞にはそれが快楽になる……わけありません。
そして、来週月曜日から木曜日までは、プール以外は家に引き籠もり、その翌週火曜日のシンポジウムでの発表原稿作成です。« Introduction à la philosophie japonaise » と題されたこの国際シンポジウムは、パリ・ナンテール大学で同大哲学部単独主催で行われます(こちらがシンポジウムの紹介頁です)。フランスの大学の哲学部が日本の哲学のみをテーマとして開催する初めてのシンポジウムです。主な対象は、同大哲学部の学部と修士の学生たちです。彼らのための「日本哲学入門」を、というのが主催者側の意図です。依頼に応じて、私は田辺元の哲学について話します。その原稿を来週書かなければならないのです。
これが来週の講義を一つ休講にし(もちろん後日補講はします)、オフィスアワーもキャンセルした理由です。急用があれば、もちろんいつでも直ちに大学まで出向きますが、そうでないかぎり、原稿作成に専念します。 « Si vous n’avez pas besoin de moi, laissez-moi tranquille ! » 心がそう叫んでおります。
今晩は、これから夕食時にワインを飲んで(って、毎晩飲んでるじゃん)、早めに就寝します。
追伸 11月6日の記事で話題にした学部二年生向けの講義 « Introduction à la recherche » は、もちろん予定通り火曜日の午後6時から8時まで行います。
明日の記事でその理由を書きますが、目下、ちょっとですね、いわゆる「テンパっている」状態なのであります。その程度はかなり深刻で、来週の講義の一部を休講にし、オフィスアワーもキャンセルしたくらいなのであります。学生たちには今日の授業でその理由を正直に説明して、理解を求めました。彼ら、笑ってました(それって、「許す」ってことだよね?)。
そこで、今日の記事は、ただの「グタグタ」です。だったら、書かなければいいじゃん?と思われる方もいらっしゃることでしょう。ご意見、ごもっともでございます。でもですね、これは性格というか、とにかく毎日書くということに、独りきばって、こだわっているのです。ということですので、以下の文字通りの駄文はお読みにならないことをお勧めいたします。
さて、拙ブログを日頃から読んでくださっている方々のうち、どのくらいの方が気にされているかわからないのですが、拙ブログの記事は15のカテゴリーに分類されています。といっても、分類された記事数を見れば一目瞭然ですが、上位4カテゴリー「哲学」「読游摘録」「雑感」「講義の余白から」だけで全体の九割を占めています。「哲学」がトップなのは、自分の研究分野ですから当然といえば当然ですし、その他のカテゴリーに分類しにくい記事はすべて「雑感」としますから、これが多いのも無理はない。「講義の余白から」が比較的多いのも職業柄驚くに当たりません。
分類記事数第二位の「読游摘録」は、私の造語ですが、要するに、研究のためにせよ愉楽のためにせよ、本を読んでの感想はすべてこのカテゴリーに分類しますので、まあ結局、これも職業柄多いのは当たり前ですね(なんだよぉ、だったら最初から話題にするなよ ― まあまあ、怒らない怒らない)。
ただ、読む本のジャンルや内容、あるいはそれを読む理由からしたら、このカテゴリーに分類するのが少し躊躇われる場合もあります。先月末からの川口常孝の論文「“花”の流れ」についての記事など、その場合に該当します。
最初は、興味をもった箇所をそれこそちょっと「摘録」するくらいのつもりで書き始めたのですが、途中から、講義の準備のためという目的も超えて、これはもっと大きなテーマだと気づいたのです。そうなると、書物の中を「游ぶ」という意味の「読游」の枠に必ずしも収まらなくなってきました。
かといって、これは「哲学」には入れにくい。また一つ新しいカテゴリーを付け加えようか、例えば「研究ノート」とか、とも思うのですが、そうすると、過去の記事の中にも、この新カテゴリーのほうがふさわしい記事もありそうです。それらを探すのも、なにしろすでに二千件近い記事がありますから、ちょっと手間です。
というわけでって、あれっ、何が言いたかったのかなぁ? まあ、いいや。これから明日の講義の準備があるし。ふぅ~、また「深夜営業」だぁ~。「営業時間」は、午前二時から朝の八時頃まで。人は「深夜大学」って言ってるよ。客が来るかって? それがけっこう来るわけ・・・ないじゃん。
先々週の試験の答案の採点がまだ終わっていない。その理由は二つある。一つは、先週一週間の万聖節の休暇中、採点作業を一切行わなかったからである(休みは休みってことです)。もう一つの理由は、そしてこちらのほうが大事なのだが、こちらが出した試験問題(10月24日の記事で紹介した)の要求水準に応えるべく学生たちが書いてくれた答案が実に読み応えがあるからである。27名の受験者のほとんど全員が、授業外で自主的に参考文献にあたってよく調べた上で、私がいつも学生たちに期待している歴史的想像力を駆使して、面白い答案を書いてくれている。だから読むのに時間がかかるのである。
というわけで、今日の記事は短いし、ほとんど川口論文の引用に尽きる。「秋の花」と題された節から引く。
この期[天平勝宝三年(751)]になってまったく新たに「秋の花」(巻第十九・四二五四)の語が登場し、また「秋の時花種にあり」(同反歌)というふうに、花を秋に即してとらえる美意識が生まれてきた。この「秋の花」の登場は、「春花秋葉」に対して「春花秋花」という美的意識を開拓した意味において画期的である。[中略]家持自身の意識がどうあろうとも、万葉集の“花の流れ”の客観的把握において、この語の登場が、秋の花々に対する愛好の、いわば、一種の決着であったことは、これを認めていいであろう。[中略]家持以後、日本文学史は、安んじて「秋の花」を歌うことができるようになったのである。(川口前掲書、36-38頁)
ただし、引用文中の反歌の川口の訓みは取れない。西本願寺本本文は「秋時花 種尓有等」で、伊藤博『釋注』、岩波新古典文学体系本、いずれも「秋の花 種々にあれど」(「種々」は「くさぐさ」)と訓んでいる。
ともあれ、家持が万葉集における美意識の最終的な到達点を示すと同時に、平安時代以降の和歌の美意識の開花を準備したことを「秋の花」という一語がよく示しているという川口論文の結論は動かないだろう。
川口常孝『万葉歌人の美学と構造』所収の論文「“花”の流れ」を水先案内人として、記紀歌謡から万葉にかけての〈花〉の移りゆきを先月二十八日から辿り始めて、万葉第四期の家持歌中の「花」の歌に見られる無常性にまで昨日の記事でたどり着いた。〈花〉を訪ねる旅の先はまだまだ長いのだが、今日は一息入れることにする。
実は、この連載は「趣味と実益」を兼ねている。というのは、ちょうど一週間後の火曜日に、学部二年生向けの « Initiation à la recherche » という二時間の授業の枠で一回だけ講義を担当するのだが、その中でこのテーマを扱うからである。今年度から新たに導入されたこの講義では、日本学科の専任教員たちが学部二年生たちに研究の最初の手ほどきをそれぞれ一回ずつ行うというのがその目的である。来週が私の番というわけである。
二年生は、現代日本語の一般的なテキストを読むことさえまだ覚束ない程度の日本語力しかないから、研究の手ほどきになるような日本語のテキストをいきなり読ませるわけにはいかないし、ましてや専門性の高い術語の知識を要求する話もできない。
私が担当するのは、何らかの仕方で日本思想史にかかわる問題であるが、さて、いったいどんなテーマをどのように扱おうか、しばらく思案した。それで、彼らが間違いなく知っている一つの言葉がある時代にいかなる価値を表現し、それがどのように変化していくかを具体例を挙げて示せば、日本文化への研究的アプローチの一つの導入になるかと考えた。というわけで、上代文学における「花」を例として、日本詩歌史の中である一つの言葉が担う価値の変遷を示してみようというわけである。
ただ、一つのテーマについて二時間話を聴くというのは、彼らの集中力ではかなり困難であろうと予想される。そこで、「花」を主題としつつも、彼らの様子を見て話に変化を与えた方がよいとその場で判断したときのための「小ネタ」もいくつか仕込んでおくつもりである。
今日から万葉第四期に移る。
第四期に配分される九百首ほどの歌のうち、その半数以上の四百七十首余りが大伴家持の歌である。それら家持の歌の中で「花」という語(「卯の花」などの花名、「春花」「初花」などの他の漢字と複合語を構成する場合も含む)を含む歌は五十四首を数える。家持の作品における「花」の重要性を示唆する数字だと言っていいだろう。
家持の弟書持が天平十三年(741)四月二日に、久邇京赴任中の兄に送った歌に「常花」という言葉が出てくる。これは集中この一例のみ。
橘は 常花にもが ほととぎす 住むと来鳴かば 聞かぬ日なけむ(巻第一七・三九〇九)
「常花」とは「永久に咲いている花」という意である。しかし、それが不可能であることを前提としての詠歌であること、言うまでもない。
天平十九年(747)三月二十日、家持は、「恋緒を述べし歌一首 短歌を併せたり」と題された長歌一首と短歌四首を詠んでいる(巻第一七・三九七八~八二)。左注には、「右は、三月二十日の夜裏に、忽ちに恋情を起こして作りしものなり」とある。病癒えて、五月に税帳使として都に赴くことが決まり、長らく会えなかった都の妻坂上大嬢にもうすぐ会えるという恋情がこの歌を詠ませたことがわかる。その長歌のはじめの方に、「相見れば 常初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻」という表現が見られる。この「常初花」も、先の書持の歌の「常花」と同じく、集中この一例のみである。「永久に新しい花」「いつも咲きはじめたばかりの花」の意。
これら二語について、川口論文は次のように注解している。
これらの語を背後で支えるものは、花は散るべきものという思想であって、その逆理としての希求が「常」という語を生んだのである。かつて記紀歌謡においては、花は散っても散っても咲き出るものであった。人の散り果てるのはおおいがたい事実であっても、花は年ごとに新しく生命を吹きかえすことによって、記紀歌謡びとの“永遠”を象徴した。だが万葉も第四期になると、花は生命を吹きかえすものである以上に、散るべきものという摂理を重くになうことになった。「常(初)花」の語は、あまりにも見事に花の敗北を告げている。(川口前掲書、35頁)
永遠へのかなわぬ希求を「常」の一字に込めた「常(初)花」という造語は、〈花〉の無常の自覚をその言外に前提する。しかし、それと同時に、その無常ゆえのその都度の美しさ・初々しさへの限りない愛おしさもまたこれらの語には込められている。
「花」が「はかなさ」「うつろい」「無常」という否定的な価値とともに倭歌に顕現するのは、旅人邸での梅花の宴にも列していた山上憶良の長歌「世間の住みがたきことを哀しぶる歌」(巻第五・八〇四)の異文系統においてである。「咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし」がそれである。川口論文は、この異文についてこう注解している。
この「花」の内包は、明らかに額田王にも人麿にも見られなかったものである。これまでには「花」が、「移る」という動詞によってうけとめられた例は一つもなかった。
ただし、ここでの「咲く花の」は、「咲く花のように」という意であり、「移ろふ」という動詞に対して連用修飾語として機能しているのであって、「咲く花は移ろう」というような、〈花〉についての一般命題がここでそれとして提示されているわけではない。
問題は、異文中、「咲く花の 移ろひにけり」に続く、「世間は かくのみならし」という句である。この長歌にとってはいかにも不用な句であるが、まさにその不用な句に受けられたことによって、「咲く花の 移ろひにけり」はその内質が一変してしまっている、そう川口論文は指摘する。この句について、川口は、論文「“花”の流れ 一 記紀歌謡から万葉へ」の後注19の中で、次のようにさらに踏み込んだ解釈を提示している。
「世間は かくのみならし」は、別案の考案中に、思わずも憶良の地が出て「一に云はく」のなかにまぎれこんでしまったというほかない。地とは憶良の永遠のテーマである世間無常との対決がそれであり、その露出は、いまの場合の「花」の性格を決定することができるという意味において貴重である。(川口前掲書、84頁)
そして、本文中その直後の個所で、憶良における「花」の意味論的変容について次のように結論づける。
「花」は、世間無常の観念によって完全に思想化され、花の第一の属性たるべき華麗さの要素を、沈痛、索漠たる無常の色に染めかえてしまう。額田王、人麿の花が肯定的価値体系のなかでのものであったとすれば、憶良のそれは否定的価値体系のなかのものである。憶良は花に「喪の花」への道を拓いたのである。(川口常孝『万葉歌人の美学と構造』桜楓社、27頁)
つまり、万葉第三期の山上憶良の「哀世間難住歌」異文において、〈花〉と〈無常〉とが日本詩歌史上はじめて概念的に結合された瞬間に私たちは立ち会っていることになる。
万葉第三期に登場する花たちの主役は、言うまでもなく、梅花である。集中、詠歌群を抜いて多く、五十五首を数える。万葉における梅は、すべて白梅である。
梅花が万葉第三期に美的鑑賞の対象としての花の王座を獲得したことについては論を俟たない。観梅の遊びそのものは大陸から移入された習慣だとしても、梅花を風雅の精華としたのは当時の万葉歌人たちの感性の選択であった。そのことは、巻第五に収められた大宰帥大伴旅人邸での梅花の宴において筑紫歌壇の官人たちによって詠まれた三十二首(八一五~八四六)によく表われている。
しかし、まさにその梅花の宴酣、梅から桜への花の移りゆきの詩的自覚が仄かにその姿を現わす。
梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや(八二九)
この歌に注して川口常孝は次のように述べる。
梅から桜へ。ここでは花の存在が推移としてとらえられており、まさに“花の流れ”が歴史としての客観の目にのぼったことを示している。
同様の趣は、巻第十・一八五四の作者未詳歌にも見られる。
うぐいすの 木伝ふ梅の うつろへば 桜の花の 時かたまけぬ
この梅から桜への推移を、自然美の絢爛な華のリレーとしてではなく、自然の果敢ない移ろいやすさと捉える感性がそこには芽生えている。それは、花々に「あはれ」「はかなさ」「無常」などの負性を担わせる詩的感性がもうそこまでやってきている、ということである。
万葉第二期において花々が詠み込まれた諸歌については、それらの特徴について、川口論文に興味深い指摘がいくつかあるが、今は“花の流れ”の本筋のみを追いたいので、それらについては言及しない。
万葉第二期の花の歌の中から、次の一首のみを取り上げる。その一首とは、ある具体物としての花が作品形成の過程の中で抽象性を獲得したことを示す作歌例と川口がみなす巻第二・一五八の高市皇子作の挽歌である。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
この一首は、題詞「十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の御作りたまひし歌三首」の下にまとめられた三首中の第三歌である。左注にあるように、天武七年(六七八)四月七日、宮中で急死した十市皇女に捧げられた挽歌である。
日本書紀によれば、その日、行幸途上で訃報を受けた天武天皇は、ただちに宮中に引き返し、「十四日、皇女を赤穂の地に葬るにあたり、とくに「恩を降して」発哀の礼を行ったという。壬申の乱(六七二年)に、みずからが死に追いやった皇女の夫大友皇子のことを思えば、額田王とのあいだに生んだこの長女への格別ないとおしさを禁じえなかったのであろう(伊藤博『釋注』)。
この挽歌三首を詠んだ高市皇子は、天武の長子、十市皇女の異母兄(あるいは異母弟)であったが、壬申の乱では、天武側の総指揮官であり、皇女の夫を死なしめた張本人の一人であった。その高市皇子がなぜこの挽歌を皇女に捧げたのか。この問いに対しては、壬申の乱後二人は夫婦関係にあったという説が行われているが、中西進は、『万葉の秀歌』の中で、さらに踏み込んで、十市皇女の深い嘆きと耐えがたい苦しみに寄り添うような推測を記している。
書記によれば十市は、天武七年四月七日の寅の刻に、卒然に死んだという。自殺であろうともいわれているが、皮肉な運命に耐え、耐えきれずに生命尽きたのではあるまいか。夫を攻めて殺した仇敵高市の求愛も彼女の死を早めた一因と思われる。その求愛は、十市を苦しめたであろう。長く拒否しつつ、しかしついに受けいれたが、卯月早暁卒然と逝った。その折の高市の嘆きがこの三首である。
中西の推測の当否はともかく、皇女を卒然と喪った皇子の嘆きの深さを詠ったこの三首と日本書紀の記述とが文学的想像力を刺激することは確かである。
第三首についての川口常孝の注解は以下の通り。
この歌はそれ自体で間然するところなく隠喩を成立せしめている。「花実」のもつ実用性は地をはらい、かなしみをちりばめた美的心情の表白が、一首成立の根幹である。花はもはや利用物ではない。黄泉の国を鑑賞者の意識にのぼすべきか否かは第二として、この歌の花は黄の山吹でなければならなず、それ以外のどんな花でも色彩であってもならない。花は一首の存立に深くかかわっているのである。それは、外部から与えられた、あるいは教養的に自己が摂取した、「花」という観念ではなくて、山吹という具体物が、「花」性ともいわれるべき抽象性を作品形成の過程でみずから獲得したことである。まさに「花」の独立である。“花の流れ”は、この辺から本格的になってくる。(20頁)
引用ばかりが続いて恐縮だが、拙ブログには後日の研究のための予備ノートという機能もあるので、ご寛恕願いたい。
さて、伊藤博『釋注』は、昨日引いた巻第一・三六の長歌とその反歌三七(第一群)、三八(長歌)~三九(反歌)(第二群)からなる吉野讃歌について、その特徴を次のように指摘している。
舒明天皇の国見歌(二)が代表するように、国ぼめは、従来、天皇みずからが地霊と向かいあいながら行ってきた。ところが、ここでは、三六~七の第一群においては、地霊と対等に向かいあう天皇の姿を第三者が描き出す形に変わっている。そして、三八~九の第二群では、もっと徹底して、山の神も川の神も、つまり吉野の地霊いっさいがこぞって現人神である持統女帝に仕え奉っている、とうたっている。「天つ神」と「国つ神」の地位は完全に逆転し、天皇は地霊(自然神)を支配する絶対神として位置づけられている。天皇賛美を言葉の上に客観視した、言いかえれば、賛美が純粋に歌の主題となりおおした、まったく新しいかたちの讃歌というべきで、宮廷歌人の第一人者といわれる人麻呂の面目が躍っている。
対象としての国土への讃歌でもなく、ましてや叙景歌でもなく、王権の賛美をその目的とする歌において、「花」から具象性が捨象され、その観念性が前面に打ち出されるのは必然的な結果だと言える。
人麻呂のこの吉野讃歌は二群とも、「山」と「川」との対比を心がけて叙述が進められている。[中略] 万葉の時代には倭歌においても、漢詩においても、吉野にあっては山川の対比によって対象をとらえるのでなければ、自然の賛美は完結しないという習慣があったが、倭歌においてこの習慣を作ったのは人麻呂の吉野讃歌で、人麻呂のこのいとなみは日本の漢詩におけるそれよりも先んじていた。こうして人麻呂によって樹立された方法は、以後、天平の宮廷歌人、笠金村や山部赤人たちにうけつがれ、やや下って田辺福麻呂や大伴家持たちになると、吉野に関せず山川の対比が登場するようになる。
吉野賛美の歌にかぎって山川対比の構成が表われるのは、吉野が山水の充足をそなえていた実情にも一因はあろう。が、より大きくは、吉野が大和朝廷の格別の聖地であり、聖地には、国土形成、五穀豊穣の二大要素である「土」(山)と「水」(川)とが相ともに充ち足りているのでなければならぬという思想がはたらいている。
そうであってみれば、「花」もまた、肉眼で見た花々の美しさを指すのではなく、自然のうちに繰り返し咲き散るものの華麗なる美という観念性を帯びるのも当然の帰結だと言えるだろう。