内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカルから離れ、« suppôt » を導きの糸として、ヴァンサン・デコンブとリュシアン・テニエールを経て、西田哲学へ

2018-12-11 17:35:11 | 哲学

 昨日の記事で引用したパスカルの断章に見える « suppôt » という言葉に私が特に注目したのには、もう一つの哲学的理由があった。
 2004年に出版された Vincent Descombes (1943-) の Le complément de sujet. Enquête sur le fait d’agir de soi-même, Gallimard にこの語が使われており、それがリュシアン・テニエール(Lucien Tesnière, 1893-1954)の Éléments de syntaxe structurale(Klincksieck, 1959, 邦訳『構造的統語論要説』研究社, 2007)とリンクさせられている。
 テニエールの構造的統語論の根本的テーゼは、動詞を文の中心に置き、主語を含めたその他の要素をすべて動詞に依存する存在と規定することにある。このテーゼは、西欧言語学で伝統的な主語・述語の二項構造に真っ向から対立する。このテニエールの根本テーゼに従えば、 「主語は、その他の(文の要素)と同じく、補語の一つである」« le sujet est un complément comme les autres » (Éléments de syntaxe structurale, p. 109) 。
 例えば、« Alfred frappe Bernard » という文で、Alfred は、frapper (叩く)という動詞の「第一行為項」(le « premier actant »)であり、 Bernard はその「第二行為項」(le « second actant »)である。両者の間に構造的な「主従関係」はない。両者ともに動詞が表している動作が実現するのに必要とされる「補語」として同等である。 Alfred と Bernard は、いわば「叩く」ことがテーマの舞台の上でこのテーマが実現されるためにどちらも必要な二人の登場人物である。
 このテニエールの構造的統語論の哲学的射程の深さに気づいたデコンブは、この二つの行為項を指すのに suppôt という「古語」を導入する。

Je reprends ici le vieux terme de suppôt pour désigner l’individu en tant qu’il peut jouer un rôle actanciel dans une histoire, de sorte qu’on peut demander s’il est le sujet de ce qui arrive, ou s’il en est l’objet, ou s’il en est l’attributaire (Descombe, op. cit., p. 14).

 つまり、suppôt とは、ある行為が成立するために限定された支えのようなものである。それなしには行為が成立しないという意味では、日本語の「主体」という言葉を使うこともあながち間違いではないが、上掲の例文に即して言えば、 Alfred は「第一主体」であり、Bernard は「第二主体」ということになり、しかも「第一」「第二」といっても、構文上現れる順番に過ぎず、両者の間に上下関係はない。
 しかし、「主体」という語には、それが独立の行為主体として行為に先立って存在する個体を指し、しかもそこから一切の実体性を払拭しきれないという懸念がある。そこで、西田哲学の語彙を援用して(西田の意図に必ずしも忠実でないことは認めた上で)、二つの行為項を、「叩く」という述語面における相互に相対的な被限定的個物と呼んでみてはどうかと私は考えている。













人間、それは実体なき唯名論的「主体」である

2018-12-10 16:23:51 | 哲学

 12月6日の記事で引用した『パンセ』の断章(ラフュマ65、ル・ゲルン61、セリエ99、ブランシュヴィック115)の原文をもう一度ここに引き、その後に前田陽一訳を付す。

Diversité.

 La théologie est une science, mais en même temps combien est‑ce de sciences ? Un homme est un suppôt, mais si on l’anatomise, que sera‑ce ? la tête, le cœur, l’estomac, les veines, chaque veine, chaque portion de veine, le sang, chaque humeur du sang ?
 Une ville, une campagne, de loin c’est une ville et une campagne, mais à mesure qu’on s’approche, ce sont des maisons, des arbres, des tuiles, des feuilles, des herbes, des fourmis, des jambes de fourmis, à l’infini. Tout cela s’enveloppe sous le nom de campagne.

 多様性。
 神学は、一つの学問である。しかし同時に、いったい幾つの学問であろう。人間は一つの実体である。しかしもしそれを解剖すれば、いったいどうなるだろう。頭、心臓、胃、血管、おのおのの血管、血管おのおのの部分、血液、血液のおのおのの液体。
 都市や田舎は、遠くからは一つの都市、一つの田舎である。しかし、近づくについて、それは家、木、瓦、葉、草、蟻、蟻の足、と無限に進む。これらすべてのものが、田舎という名のもとに包括されているのである。

 Sellier 版(Le Livre de Poche, « La Pochothèque », 2004)には、« suppôt » について次のような脚注が付けられている。

En philosophie scolastique, le suppôt est la substance comme sujet de ses attributs. Appliqué à l’homme, ce terme l’identifie comme personne, unité substantielle d’une âme et d’un corps. Cependant, la filiation montaignienne et le registre nominaliste de la dernière phrase du fragment invitent à référer le suppôt pascalien au suppositum d’Ockham, sujet sans substance, dont l’unité se réduit à celle de sa dénomination.

 スコラ哲学の伝統に従えば、 « suppôt » は「実体」と訳してもよいことになる。確かに、前田訳も塩川訳も「実体」を訳語として採用している。しかし、パスカルがそれに連なるモンテーニュからの系譜とこの断章の最後の文に表された唯名論的な文脈を踏まえるならば、パスカルの suppôt は、オッカムの suppositum と関連づけて考えるべきだろうとセリエは言う。つまり、パスカルにおける suppôt とは、「実体なき主体 sujet sans substance」であって、その統一性は、したがって、実体性を有するものではなく、命名の統一性に過ぎない、ということである。
 今仮にこの sujet を「主体」と訳したが、この訳もまた不適切である。なぜなら、この sujet は、無限に分割可能な相異なった多様な要素からなる集合体を一つの全体として呼ぶための名称であって、それらの上位概念ではなく、それらの実在を前提としてはじめて意味を持つ、いわば「下位」概念であって、それ自体で独立に存在するような実体性はまったく有していないからである。
 日本語で漠然と実に様々な分野で使われている「主体」という言葉は、もともとがその訳語であった sujet の語源的意味(「下に置かれたもの」)を覆い隠し、ついにはそれを忘却し、それ自体で独立に存在しているものという意味、あるいは、そこまではっきりと強い意味を持っていない場合でも、責任能力があり自発性を有した行為主という意味で使われるのが普通であろう。ところが、このパスカルの断章の suppôt には、そのような意味はない。 人間は、実体でも主体でもなく、suppôt であり、無限に分割可能な諸要素の束に与えられた名に過ぎない。












唯一の必要なものへと導く方便としての多様性と破滅へと導く安楽のための多様性

2018-12-09 17:37:28 | 哲学

 パスカル『パンセ』において多様性の相対的価値が端的に示されているのは、「表徴 Figures」と題された以下の断章である。

 Dieu diversifie ainsi cet unique précepte de charité pour satisfaire notre curiosité qui recherche la diversité, par cette diversité qui nous mène toujours à notre unique nécessaire. Car une seule chose est nécessaire et nous aimons la diversité, et Dieu satisfait à l’un et à l’autre par ces diversités qui mènent à ce seul nécessaire (Lafuma 270 ; Sellier 301 ; Le Gerne 253 ; Brunschvicg 670).

 このようにして、神はこの愛の唯一の戒めに多様性を与え、われわれを唯一の必要なものに常に導くこの多様性によって、多様性を求めるわれわれの好奇心を満足させてくださるのである。なぜなら、必要なものはただ一つであるが、われわれは多様性を好むからである。そこで神は、唯一の必要なものに導くこの多様性によって、両方の要求を満足させてくださる。(由木康訳)

 私たちはなぜ多様性を好むのだろうか。画一性は私たちを退屈させるからだろう。しかし、なんらの統一性もない多様性は、やがて私たちを破滅へと導く( « la diversité sans uniformité, ruineuse pour nous », L987, S807, LG763, B892)。
 同じ問題について複数の互いに相矛盾する解答がすべて多様性の表われとして容認されることは、多くの人たちを誤りあるいは臆見のうちに安易にとどまらせることになりかねない。もし、みんなこぞって多様性を肯定することが、自分の意見・立場を批判されたくないから相手の意見・立場も認めるという保身の裏返しに過ぎないのなら、そしてそのような相互容認がその共同体の唯一の「絆」であるのなら、全員がそれぞれに破滅への道を歩んでいながらそれに誰も気づかないということもありえないことではない。












パスカルにおける多様性についての考察途上で発生したスピンオフ的断想

2018-12-08 13:45:46 | 哲学

 パスカルの『パンセ』に即して多様性について考察しようと、あれこれ参考文献を読んでいるうちに、以下のような断想が発生したので、それを「スピンオフ」としてそのまま書きつけておく。
 宗教に関して、狭隘な教条主義や排他的な原理主義を否定し、信仰の多様性を認める「寛容」の精神が〈近代〉の指標の一つであるとすれば、〈近代〉は最初から解消不能な矛盾をその裡に胚胎していたと言わなくてはならない。
 なぜなら、多様性の容認は、条件つきであり、有限でしかありえないからである。多様性それ自体を価値として絶対化することには原理的な矛盾がある。自己を相対化することによってしか、多様性は容認されえないからである。
 対話が可能になるのは、この自己相対化という条件下においてのみであり、いわゆる宗教間対話が結局のところ不毛な結果に終わるのは、この条件が実は満たされていないのに、表面的にお話しするだけだからである。そんなことは千年続けても何ももたらさない。
 〈私〉が自分と異なった存在を認めうるのは、その存在が〈私〉の存在を破壊しない限りにおいてである。多様性を認めるのは、それが自分の存在を脅かすことなく、自分にとって益するところがあり、この世界の「いろどり」として楽しめるときである。そこから譲歩するとしても、多様性が与える苦痛が忍耐の限界を超えないかぎりでしか、〈私〉は多様性を容認できない。
 寛容は、無条件に〈許す〉ことではない。苦痛の軽重の客観的計量の結果に基づいて理性的に選択された暫定的態度であり、それはこの「多様な」世界に生きるための一つの「智慧」である。












人間の惨めさの徴表としての多様性志向

2018-12-07 23:23:39 | 哲学

 昨日の記事の最後に引いたパスカル『パンセ』の断章のテーマ「多様性 diversité」について、同じく昨日の記事で言及したサイトに、以下のような注解が付されている。

Le fragment ne traite de la théologie qu’en apparence. En réalité, Pascal traite ici le thème de la diversité, qui apparaît non seulement dans Vanité, mais dans plusieurs fragments qui n’ont pas été placés dans les dossiers du plan d’apologie. La diversité devrait normalement être un moyen de bien discerner les choses et les différences de leur nature. En fait, comme l’homme ne dispose pas de critères propres à régler la division qui sépare les différentes parties, cette opération n’engendre qu’une multitude de parties complètement hétérogènes, de plus en plus fines à l’infini, et qui finissent par troubler la pensée au lieu de l’éclaircir. C’est pour cette raison que la diversité est un signe de la misère de l’homme, dont l’esprit est si malheureusement constitué que l’opération de division, qui devrait lui permettre de penser aboutit au contraire à le plonger dans la confusion.

 多様性を認めることは、通常、諸事物をよく見分け、それらの諸事物の間の性質の違いをよく識別するための手立てとなる。ところが、ある一つの対象の相異なった諸部分を分割する際に従うべき妥当な基準をもっていないとき、その分割作業は、まったく異質な無数の諸部分を作り出し、それらの部分は果てしなく分割されてゆき、仕舞には、思考を明晰にするどころか、混乱させてしまう。このような結果に至る多様性志向は、人間の惨めさの徴表にほかならない。













断章間散歩の愉しみ ― パスカル『パンセ』の場合

2018-12-06 19:24:54 | 読游摘録

 12月1日の記事でヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を話題にしたとき、その中にフランス語のまま引用されているパスカル『パンセ』の一文 « Ce chien est à moi » が含まれている断章の原文を掲げた。
 『パンセ』を読むときは、セリエ版をまず手に取ることが多い。その後、ラフュマ版、ル・ゲルン版、ブランシュヴィック版の順で注を読む。上掲の一文が含まれる断章の次の断章は、ブランシュヴィック版以外はすべて « Diversité » という表題がついた断章である。
 『パンセ』を読む愉しみの一つは、お目当ての断章のすぐ隣に思いがけず別の興味深い一節を発見することである。今回は、« Ce chien est à moi » という一文を含んだ断章を確かめようとと思って『パンセ』を開いたら、その次の断章の表題 « Diversité » が目に飛び込んできた。実は、こちらの断章にもとても気になる一語がある。それは « suppôt » という語である。
 それについて話す前に、まず表題について、参考文献に依拠しつつ意味を確かめておこう。
 「多様性」と通常訳される diversité は、今日、生物多様性(biodiversité)や文化の多様性という文脈などで使われるときは、守られるべきもの・大切にされるべきものとして語られることが多い。つまり積極的価値として語られる。ところが、この断章での多様性はそうではない。その点について、電子版パスカル『パンセ』という大変精緻に構成されているサイト(L’édition électronique des Pensées de Blaise Pascal)の注解とル・ゲルン版の後注に注目すべき言及がある。
 今日のところは、明日の講義の準備があるので時間が取れない(今日は深夜営業になります、トホホ……)ので、『パンセ』の当該の断章(ラフュマ65、ル・ゲルン61、セリエ99、ブランシュヴィック115)の原文を引くにとどめる。

Diversité.

  La théologie est une science, mais en même temps combien est‑ce de sciences ? Un homme est un suppôt, mais si on l’anatomise, que sera‑ce ? la tête, le cœur, l’estomac, les veines, chaque veine, chaque portion de veine, le sang, chaque humeur du sang ?
  Une ville, une campagne, de loin c’est une ville et une campagne, mais à mesure qu’on s’approche, ce sont des maisons, des arbres, des tuiles, des feuilles, des herbes, des fourmis, des jambes de fourmis, à l’infini. Tout cela s’enveloppe sous le nom de campagne.












仏語版電子書籍に散見される困った誤植

2018-12-05 23:59:59 | 雑感

 日本語版ほどではないが、英仏語の電子書籍も以前に比べればよく使うようになった。ただ、日本語の電子書籍を購入する理由の一つとしては、日本から紙の本を取り寄せるとお金も時間も余計にかかるということもあったが、これは英仏語の本には当てはまらない。欲しければ紙の本でも、早ければ翌日、おそくとも数日中には大抵の本が入手できるからだ。
 それでも英仏語の電子書籍を購入するのは、欲しい本の電子版しかないというどうしようもない場合もあるが、紙の本にくらべて圧倒的に安いとき、全集物など大部なものについてその全体に検索をかけたいとき、日本語の本の場合と同じように、ラインマーカーを引いたり、コメントを加えたいとき、あるいは授業中に引用したいとき、などの場合もある。
 先日何回か話題にした聖ヨハネ・クリゾストム全集は、紙の全集も全巻復刊されているが、全十一巻揃えるとなると、それなりの出費になるし、場所も取る。Internet Archive で無料で全巻読むことができ、各巻ごとの検索はできるが、全巻通しての検索はできない。そこでわずか3€たらずで電子版の全集を購入した。ところが、すぐに誤植に気がついた。
 技術的なことにはまったく疎いが、この誤植のタイプを見ると、この電子版は紙の本からテキストとしてスキャンして作成されたのだろうと思われる。自分でも経験があるが、活字が少し崩れているようなテキストをスキャンすると、機械は読み間違えてしまうことがよくある。アルファベット文字の組み合わせが似ているときも読み違える。
 クリゾストム全集に検索をかけていて、奇妙な表現に出会った。

Tel individu est rempli de beaucoup de défauts, il pourrait aisément les cacher dans la solitude, en les empêchant de se traduire en actes, que gagne-t-il à se produire sur le théâtre du inonde ?

 この文の最後の « théâtre du inonde » というのは、文法的にありえない形である。それに そもそも « inonde » という名詞はない。 « inonder » という「水浸しにする」という意味の動詞はあるが、その三人称単数形現在をここに置くことは文法的に不可能である。と、一瞬戸惑ったのだが、すぐにこれは « monde » とあるべきところだと気づいた。たしかに、 « m » と « in » は、少しでも印刷が不鮮明だと機械には区別できないだろう。同様の誤植が全部で54箇所もあった。おそらく誰も肉眼では確認していないのであろう。いくら安いといってもねえ、ちょっと多すぎません?
 同様な間違いは、上田秋成の『雨月物語』の仏訳にも見つかった。

Des bandes années qui avaient, çà et là, bloqué les routes, incendiaient et pillaient.

 この文頭の « bandes années » という意味をなさない組み合わせは、 « bande armées » とあるべきところ。
 これらの誤植は発見するのが比較的容易だ。だが、発見しても少しも嬉しくない。欠陥商品を買わされたようなものである。まあ、安かったから仕方ないか、文句言ったって交換してくれるわけじゃないしな、と泣き寝入り。
 さらに困るのは、ほんとうは誤植なのに、誤植のままでも文法的に可能でありかつそれなりに意味が通じてしまう場合である。この場合は発見が格段に難しくなる。
 最後に、これは校正者の怠慢だと、かなり腹がたったケースを紹介しておく。
 それは、昨年 Cerf から出版された西谷啓治『宗教とはなにか』の仏訳 Qu’est-ce que la religion ? である。訳者は知り合いであり、彼が何年も前からこの仕事に取り組んでいたことは本人から聞いて知っていたので、楽しみにして待っていた。紙の本も買ったのだが、授業や講演なのど際に利用するかも知れないと思って電子版も購入した。良い訳だと思う。
 ところが、唖然とするような誤植がすぐに見つかってしまった。この著作で西谷は「空」(もちろんクウと読む)という語を頻繁に使っている。それらの箇所に、訳者は、「空 」と丁寧に漢字とその読みを加えているのだが、これが電子版ではすべて「」 になってしまっている。
 今年の三月のストラスブールでの講演会にともに講演者として招かれたとき、訳者にこの誤植を指摘し、出版社になんとかするように言ってくれと頼んだ。その後どうしたか知らないが。こんな簡単に見つかる誤植を見逃して出版するなど、私に言わせれば言語道断である。プロの仕事とは言えない。「金返せ!」と言いたいところである。












電子書籍を使いはじめてから気づいたその利点

2018-12-04 23:59:59 | 雑感

 昨年10月から、主に講義のための参考文献として日本語の電子書籍をよく使うようになり、この一年あまりで440冊ほど購入した。授業で複数の文献をそれぞれちょっと参照したいとき、すぐに必要な箇所だけスクリーン上に自由に拡大表示できるのは実に便利だ。コピーを渡したり、予めスキャンしてPDF版にしておく必要もなく、予め自分で打ち直す手間もなくなった。なにより、ノート型パソコンあるいはタブレットにそれらすべての電子書籍が入っているのだから、紙の本を詰め込んだ重たい鞄を持ち運ぶ必要もなくなった。
 購入した本は、すべて講義のためばかりというわけでもなく、ちょっと気になる本で、でも紙の本を買うほどでもないかと躊躇い、ただ中身をすぐに見ておきたいと思うときなどに、紙の本より安く、しかも割引キャンペーン中だったりすると、ついクリックしてしまう。
 こんな買い方・使い方だから、いわゆる読書の愉しみからは程遠い。一応読了した場合でも、紙の本の最後の頁を読み終えたときのような充足感はない。
 電子版で読んでみて、大変面白かったとき、これはきっと何度も読むことになるだろうからと、紙の本を後から買ったことも度々ある。最初は、同じ本なのに電子版と紙の版を買うのはお金の無駄遣いではないかと思ったこともある。ところが、両版を持つことには、それ以前には考えられなかった利点があることに気づいた。
 紙の本を買った場合は、よほどのことがないかぎり、書き込みはおろか、ラインマーカーを使うことも、鉛筆で傍線を引くこともめったにない。どうしてもそうする必要があるときには、同じ本を二冊買っていた。それくらい本を「汚す」のが嫌なのである。その理由は、後で売り払う場合のことも考えてということもなくはないが、もっと単純に、本はできるだけ綺麗なままに保ちたいという気持ちをどうしても振り払うことができないからである。
 電子書籍にはこの気遣いは一切無用だ。マーカーも使うし、コメントも書き込む。マーカーは、不要になればいつでも消せるし、コメントも本文脇に書き込むわけではなく、必要に応じて呼び出すだけだ。これも簡単に削除できるし、逆に追加もできる。このような使い方をすることで、電子書籍は、一冊の本というよりも、いつでも更新可能な一種のデーターバンクの構成要素として機能するようになる。これはこれで大変重宝な「道具」である。







氷のように冷たい言葉「僕のもの、君のもの」

2018-12-03 23:59:59 | 哲学

 聖ヨハネ・クリゾストムは、ギリシア教父の中でその説教の雄弁さにおいて際立っており、今日でも崇拝の対象になっているようである。説教の言葉であるがゆえに、書かれた文章としてそれらを読むと、繰り返しが多いと感じざるを得ないが、実際に肉声で説かれる説教を聴いた聴衆にとっては、その具体的なイメージを伴った表現の繰り返しによって、クリゾストムが熱を込めて説く教えが心に染み込んできたのであろう。
 最近になって仏訳全集が復刊されたり、関連書籍の出版も活発であることから見て、正教会においてばかりでなく、カトリックの世界でも今日新たな注目を集めているようである。全集の大半を占める説教群は、高度な神学的内容を説くというよりも、民衆教化、異端者たちとの対決、奢侈に傾く権力者批判など、当時の現実世界の情況に即しつつ、かつ自在に聖書を引用しながら展開されている。
 「僕のもの、君のもの」という表現も、民衆にわかりやすく教えを説こうという配慮から繰り返し使われていると思われる。異端者たちに向かって「闘技場に立って」説教するときも、単純な表現で論点を明快に示しながら、厳しく彼らの逸脱を指摘する。

Si, dans ce monde où les maladies, les persécutions, les trépas prématurés, les calomnies, les jalousies, les chagrins, les colères, les convoitises coupables, des pièges sans nombre, des soucis quotidiens, des maux continuels et successifs, fondent sur nous de toutes parts et nous soumettent à mille tortures diverses, Paul déclare une joie sans interruption possible à celui qui élèvera un peu sa tête au-dessus des flots des choses du siècle, et réglera sa vie selon l’équité ; à plus forte raison nous sera-t-il facile de goûter ce même bonheur au sortir de la vie présente, alors qu’il n’y aura plus ni maladies, ni souffrances, ni occasions de péché, ni le mien et le tien, ce mot glacial, principe de tous les maux qui nous affligent, et de guerres sans fin (op. cit., p. 427).

 現世にありうる災厄の数々を数え上げた上で、パウロに依拠しつつ、それらから解放され、絶えざる歓喜を享受することは、世俗の雑事より少し上に頭を上げ、生活のすべてを公平さにしたがって律するものには可能であると、相対的な可能性を述べた上で、現在の生から超脱する者は、なおのこと、いとも容易にこの同じ幸福を味わうことができ、もはやいかなる苦しみもなくなるであろうと畳み掛ける。「氷のように冷たい言葉」である「僕のもの、君のもの」が、諸悪と果てしない戦争の原理としてその締め括りに置かれている。












「僕のもの、君のもの」という格差原理が追い払われた修道院の「平安な」共同生活への頌歌

2018-12-02 19:37:14 | 哲学

 聖ヨハネ・クリゾストム仏訳全集第一巻の「敵対者たちに抗して」というタイトルの下にまとめられらた教説の一つ「修道院生活について」の中に « le tien et le mien » という表現で、自他の所有を区別する世俗社会の原理に言及している箇所がある。その箇所を含んだ一節の前節では、世俗社会の不平等・不幸・不和の例が列挙され、それと対比される形で、当該節では、修道院生活には、そのようなものは一切ない、とその生活の平安が謳われている。そこでは、一切が等しく分かち合われ、完全な統一性が実現されている。そこで生活する者たちは、同じ一つ魂を持っているとまで言われる。こうした記述がかなり延々と続き、いくらなんでも修道院生活が理想化されすぎており、現実がこの記述どおりだったとは信じがたい。しかし、それは今の私たちの問題ではない。
 上掲の « le tien et le mien » が出てくる箇所だけを引いておこう。

Le tien et le mien, ce principe de tout désordre, sont bannis de ce séjour ; toutes choses y sont communes, la table, l’habitation, le vêtement (Œuvres complètes, tome I, p. 96).

 その他の箇所でも、« le mien, le tien » あるいはそれに類似した表現が用いられているときは、常に同じ原理が批判の対象とされている。つまり、自他の所有を区別することがすべての混乱と不和の始まりだ、ということである。しかし、すべてのものが共有され、成員間に完全な平等が成立している共同体ということなら、それは理想化された原始共産制とどこが違うのであろうか。
 その平等で調和がとれた状態からの発展を拒否し、その共同体の中で自足し、その外部とのコミュニケーションを断つことによってのみ、そのような平穏な共同生活が成り立つのだとすれば、そこで享受されている閉鎖的平安を破壊する « le mien, le tien » こそ、閉鎖的共同体から開かれた社会への発展の契機であり、その発展過程に争いは不可避である、という反論も当然出てきてしまう。
 このような問題も念頭に置きつつ、« le mien, le tien » 原理が批判的に言及されている別の説教いくつか読んでみよう。