内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

年内最終授業、あるいは百人一首源平散らし取り混合戦

2018-12-21 17:36:59 | 講義の余白から

 今日金曜日が年内最後の授業だった。今週、他の大半の授業は試験日だったが、私は先週パリ出張で一回休講にしたので、今日まで授業を行い、年明けの前期最終週に筆記試験を行う。と言っても、年明けの試験日に小論文を提出させ、当日の筆記試験では自分が小論文で採用したアプローチについて説明させることになっており、特に試験準備の必要はないので、厳密には筆記試験でさえない。そういうこともあり、また昨日までに試験をすべて終えた学生たちの中にはさっさと帰省してしまったのもいたりして、今日の授業はいつもより出席者が7名ほど少なかった。
 計三時間の授業のうち、最初の二時間は、江戸時代の「四つの口」ついて、まずフランス語の文献や地図・図表等を使ってアウトラインを説明した後、「四つの口」の提唱者である荒野泰典の論文の一部を読ませたりして、学生たちを苦しめた。日本語原文を読んでは、抄訳をつけるという形で進めながら、これはいくらなんでも日本語のレベルが高すぎたなと途中で気づいたが、時すでに遅し。
 残りの一時間については、二週間前の授業の終わりに、百人一首カルタで遊ぶことを予告しておいた。とはいえ、すべて日本語でやるというのがこの一時間の授業の大原則であるから、ルールの説明も当然全部日本語である。出席者は十八名だったので、三名ずつ六つのチームをその場でつくらせ、私が持ってきた三組の百人一首カルタを使って、三試合を同時で行うという形にした。読みはネット上の音源を使った。源平戦のように五十枚づつそれぞれの陣営に三段に並べるのではなく、散らし取りのときのようにカルタをランダムに撒き、チームで取らせることにした。
 最初のうちこそ旧仮名遣いにみな戸惑いをみせ、取り札を見つけるまでに時間がかかっていたが、しだいに慣れてきて、一首読み終わるか終わらないかのうちに取れるようになっていった。それにつれて、最初はおとなしかった学生たちも声を上げて笑うようになり、教室全体が活気づいていった。お手つきも多かったけれど、それは大目に見た。曇天から氷雨が降る窓外の景色とは対照的に、教室内は普段の授業とはまるで違う明るい空気に満たされた。
 さすがに歌を覚えている学生はおらず、上の句だけで取れる学生はいなかったのだが、ただ一人、「ちはやぶる」だけで取った学生がいた。この学生は映画『ちはやふる』が大好きで、この一首だけは覚えていたのだ。他の学生たちはその速さにあっけにとられていた。本人はガッツポーズをきめていた。
 普段の授業時間をオーバーしてしまったので、「途中だけど、やめますか」と聞いたら、最後までやるというので続けた。始めたときは、学生たちが楽しんでくれるかどうか半信半疑だっだが、終わってみれば、カルタが入っていた美装箱の写真を撮りに来たり、「すごく面白かった」と喜んだりと、みんなで楽しく今年最後の授業を締めくくることができた。
 « Bonnes vanacnes » あるいは « Bonnes fêtes de fin d’année » と、ノエル前のお決まりの挨拶を互いに交わしながら、学生たちは教室を去っていった。学生たちがいなくなった教室でカルタを箱にしまい、教室の灯りを消して、私も教室を後にした。












「彼は誰時」の哲学、真昼の哲学、黄昏時の哲学、そして深夜の哲学

2018-12-20 19:58:08 | 哲学

 先週金曜日のパリの出張の際、シンポジウムで司会を担当するセッションの開始時間まで少し余裕があったので、会場の EHESS のすぐ近くの Les Belles Lettres 出版社の本屋さんに立ち寄った。ここ数年、ネットで本を購入するようになってからは、新本を書店で購入することはほとんどなくなってしまった。Les Belles Lettres に立ち寄ったのも、時間潰しのためにただ書棚の本を眺めるためだった。
 ところが、最近刊が平積みしてある棚に、マルクス・アウレリウスの『自省録』の仏訳 Pensées pour moi-même が並んでいるのが目に止まった。 A5版よりやや小さめのその本の装丁は、黒地に白の細密版画風のデザインが施してあるだけのシンプルなものであったが、それでかえって気を引かれた。訳そのものは新訳ではなく、1925年に初版が出版された Trannoy 訳で、現代の専門家によって再読・補訂された版である。訳者には失礼な話だが、訳そのものにというよりも、装丁の品の良さと 9, 90€ というきわめて良心的な価格に惹かれて、パリ出張記念という名目で、久しぶりに本屋で新刊を定価で購入した。
 その日の夜、セッションを終えてストラスブールの自宅に戻ってから、その訳本のところどころを手元にある他の仏訳と邦訳と比較しながら読んでみた。偶然開かれた頁が第二巻第一節で、その節は、« Dès l’aurore, dis-toi d’avance » という一文で始まる。邦訳では、「あけがたから自分にこういいきかせておくがよい」(岩波文庫、神谷美恵子訳)、「早暁、今日という日に先立って己に言うこと」(講談社学術文庫、鈴木照雄訳)となっている。
 いくつかの仏訳で « aurore » あるいは « aube » という語が使われている箇所を電子版で検索してみた。それでちょっと思いついたのは、ストア派は、いわば明け方の哲学、言い換えれば、「彼は誰時」の哲学、と言えないかな、ということである。早朝、その日の目覚めたら、まず自分に言い聞かせるべきこと、その原則に従って今日も生きよと自分に命ずる哲学、という心である。
 そこから空想は勝手に広がってゆき、真昼の哲学、黄昏時の哲学、そして深夜の哲学と性格づけられる哲学もあるだろうと考え始めた。今の段階では、ただの思いつきにすぎないけれど、例えば、カントは早暁派、ニーチェは真昼派、ヘーゲルは黄昏派、デカルトは深夜派、かな?















夢中に現成する忘れ難き事 ― 道元の一偈頌に触れて

2018-12-19 20:27:51 | 読游摘録

 岡潔の随筆集『夜雨の声』を取り上げた昨日の記事の中で言及した道元の偈頌について、大谷哲夫『道元「永平広録 真賛・自賛・偈頌」』(講談社学術文庫、2014年)に依拠しつつ、若干の感想を記しておきたい。
 偈頌とは、「仏法の教説の一段または全文の終わりに詩句をもって陳べる韻文のことである。が、とくに禅門では五言あるいは七言の漢詩形で仏徳を讃嘆し、さらには禅の教義・見解を説示したものを総称して「偈頌」という」(大谷前掲書)。当該の偈頌全文を同書の表記のままに掲げよう(括弧内は異本の本文)。

生死可憐休又起(卍本 雲変更)
迷途覚路夢中行
雖然尚有難忘事(卍本 唯留一事醒猶記)
深草閑居夜雨声

生死憐れむべし休して又起こる(卍本 雲変更)
迷途覚路夢中に行く
然りと雖も尚忘れ難き事有り(卍本 唯一事を留めて醒めて猶記す)
深草の閑居夜雨の声

 道元は、夢の世界も仏法の世界の範疇であると説く。二行目の大谷訳は、「迷いとかさとりというのも同じこと、それが二つ在るのではなく、一つの真実で取捨選択すべきものではなく、それは夢覚一如、迷悟一如で、夢中に往来したようなもの」となっている。三行目の「忘れ難き事」が何を指すのかについて、諸家の解釈は分かれているようである。いずれの解釈が妥当なのか、私にはもちろんわからない。
 ただ、まったく予備知識なしに最初にこの偈頌を読んだとき、三行目の「忘れ難き事」とは、四行目の「夜雨の声」として今ここに現成している仏法そのもののことではないかと思った。今ここに雨が降っていてその音が聞こえているという事象の〈事なり〉は、忘れようにも忘れることができない真実だということなのではないか、と思ったのである。もちろんこれは表面しか見ない素人の誤読に過ぎないであろうけれど。













ささやかな創造の喜び ― ブログを続けることの意味について

2018-12-18 23:59:59 | 読游摘録

 岡潔の随筆集『夜雨の声』(「やうのせい」と読む。山折哲雄編、角川ソフィア文庫、2014年)には、その書名として山折哲雄によって採用された「夜雨の声」をその表題としてもつ随想集が巻末に収められている。「夜雨の声」というタイトルは、道元の偈の一つの最終行「深草閑居夜雨聲」から採られた(この道元の偈については明日の記事で触れる)。九つの小見出しが付けられたそれぞれ数頁ずつの随想からなる。初出は、『大法輪』(1973年7月)、その後、『日本の国という水槽の水の入れ替え方』(成甲書房、2004年)に収録された。
 角川ソフィア文庫版『夜雨の声』には、「春の日、冬の日」と題された随想集も収録されている。初出は、『朝日新聞』1965年5月2日~14日。その後、『岡潔集 第二巻』(学習研究社、1969年)に収録される。この随想集の中に「創造と喜び」と題された節があって、寺田寅彦が言うところの「発見の鋭い喜び」について岡が小学六年のころの自身の経験を例に説明している箇所がその中にある。
 岡少年は、長い間「おおむらさき」という蝶を捜し求めていた。ある日、その蝶を発見する。

 小学六年のころ、ある日山畑の端のクヌギの木の所に行ってみると、長い間捜し求めていた「おおむらさき」がとまっている。閉じていた羽根をおもむろに開くと、日の光が美しい紫色に鋭く輝く。私ははっと息を詰める。
 このときの喜びが発見の鋭い喜びである。その種類がよくわかるように拡大して説明する。道元禅師は『正法眼蔵』(岩波文庫、上)で「有時」ということを説明している。これはその刹那、その一点に、すべての時間・空間が凝集してしまって、そのためそれがすっかり中身のあるものになっているという意味である。「おおむらさき」を中心にしていっさいのものがあり、きらっと紫色に光った刹那を中心にしていっさいの時がある。このとき私は「おおむらさき」の存在を私の存在とともに少しも疑わなくなるのである。

 「発見の鋭い喜び」を経験すると、その瞬間、その時空の一点を中心として無限に広がる時空と己の存在とが疑いもなく直に確証される。誰にでも容易に訪れうる経験だとは言えないだろうが、天才だけに許された神秘的な経験ということでもないだろう。
 上掲引用箇所の直後に、寺田寅彦が研究者として自分独自の研究を始めてから感じるようになった生き甲斐(それは病弱だった寺田を健康体にさえした)についての言及がある。それは創造の喜びがもたらす生の跳躍と言ってもよいだろう。しかし、その反面、その「生み出す、つくり出すという働き」がまったく感じられなかった日は、「まるで一日が空費されたように」思われた。その創造の働きは、どんなささいなことであってもよい。「たとえそれがある文章で一字ニ字を置き変えるというごく些細なものであってもよい」のだ。
 岡はこの寺田の言にこう説明を加える。

 ある文章で一字ニ字を置き変えるというごく些細なものであっても、それが本当に創造であれば、全身に喜びを感じるのである。ちょうど一輪二輪の梅花であっても、それが本当に木から咲き出たものであれば、その上に満天下の春を感じるが、造花はどんなにたくさんであっても紙くずにすぎないのと同じである。

 今までこのように考えたことはなかったが、自分が毎日ブログの記事を書き続けているのも、たとえそれが誰からも顧みられることがなくても、たとえそれがどんなに些細なことであっても、自分における創造の喜びを感じる機会になってくれれば、それだけで生き甲斐が感じられるからなのかもしれない。













Facebook の効用の一つ ― 「生きているよ」というサイン

2018-12-17 17:45:54 | 雑感

 拙ブログは、Twitter と外部連携してあるので、記事をアップすると自動的にTwitter にもその記事のタイトルとリンクがアップされます。Facebook の方もそうなっていたのですが、この夏以降、なぜか外部連携できなくなってしまいました。それで仕方なく、毎日記事を投稿した直後に Facebook にも「手動」でアップしてきました。
 ところが、これもどうしてだかわからないのですが、先月下旬から投稿がずっと非公開になっていたのです。そうとは知らず、せっせと Facebook に毎日アップしていたのですが、今朝、日本の家族から、ここのところ記事が投稿されていないけれど元気かと心配するメールが届いたのです。驚いて確かめてみると、なぜか友達中のただ一人のみの公開になっていたのです。そんな操作をした覚えはもちろんありません。結果として、事実上ほぼ非公開に等しい状態が四週間ほど続いていたことになります。
 毎日ブログをアップしていたからこそ、それが突然なんの予告もなしにストップしたとき、普段から Facebook を介してブログを見ていた家族が「異変」に気づいてくれたわけです。まあ、脳梗塞かなんかで突然倒れて手遅れのときはどうしようもないわけですが、それでもブログを毎日続け、そのリンクを Facebook にも投稿しておくことには、それがストップしたときに、「あれ、どうしたのかな」と気づいてもらえるという効用もあるのだなと、これからも毎日ブログを続けていくモチベーションを高めてくれた一件ではありました。













夜明け前の微光の不安、あるいは我が身の行く末も知れぬ暁の「かはたれ時」

2018-12-16 11:02:02 | 詩歌逍遥

 夜来降雪、早朝積雪二三寸。此冬初哉。今朝水泳如常。之云雪中泳。泳人諾希少也。

 昨日読んだ防人歌二十首余りのうち、特に心惹かれたのは次の一首。

暁のかはたれ時に島陰を漕ぎにし船のたづき知らずも(二十・四三八四)

 天平勝宝七年(七五五)二月、前年兵部少輔となった大伴家持は難波に赴き、筑紫に向かう防人たちを監督する傍ら、彼らの詠歌中、およそ半数の拙劣歌を除き、八十四首(うち長歌一首)を万葉集巻第二十に収載した。上掲歌はそのうちの一首。下総の国の防人歌十一首のうちの冒頭歌。
 「かはたれ時」は、「彼は誰れ時」で、夜がようやく白む頃、明け方の薄明のこと。「たそがれ時」が「誰そ彼時」で夕方の薄明を指すのと対をなす。
 ちなみに、「かはたれ時」「たそかれ時」は、フランス語では、それぞれ « aube » と « crépuscule » に対応する。前者は、白みかけた夜明けの最初の光のこと、後者は、日没直後の黄昏時である。ただし、« crépuscule du matin » とすれば、 « aube » とほぼ同義となるし、« crépusculaire » という形容詞は、時間帯に関係なく黄昏時のような薄明かりの状態をも表わす。ただ、crépuscule には、これからまもなく夜の闇が訪れるという含意が拭い難い。ゆえに、十八世紀には、比喩的に「衰退」の意味で使われるようになり、十九世紀には、西欧文明衰亡史観の流行とともに、この比喩的な意味で頻繁に使用されるようになった。ワーグナーの歌劇『神々の黄昏 Götterdämmerung 』(1876年初演)、ニーチェの『偶像の黄昏 Götzen-Dämmerung』(1888年)は、フランス語訳で、それぞれ Le Crépuscule des dieux, Crépuscule des idoles である。フランス語には « aurore » という語もあり、これは通常「曙光」と訳される。最初の朝の微かな光である aube の直後、少し薔薇色に明るみはじめた空の光が aurore である。両語とも「初め」「初期」「黎明期」などの比喩的な意味でも使われる。前者についてすぐに想起されるのが、ヴィクトル・ユーゴーの最も有名な詩の一つの冒頭である。娘が小学生だった頃、どちらが先にこの詩を暗唱できるか競ったことを懐かしく思い出す。

Demain, dès l'aube, à l'heure où blanchit la campagne,
Je partirai. Vois-tu, je sais que tu m'attends.
J'irai par la forêt, j'irai par la montagne.
Je ne puis demeurer loin de toi plus longtemps.

Je marcherai les yeux fixés sur mes pensées,
Sans rien voir au dehors, sans entendre aucun bruit,
Seul, inconnu, le dos courbé, les mains croisées,
Triste, et le jour pour moi sera comme la nuit.

Je ne regarderai ni l’or du soir qui tombe,
Ni les voiles au loin descendant vers Harfleur,
Et quand j'arriverai, je mettrai sur ta tombe
Un bouquet de houx vert et de bruyère en fleur.

 上掲の万葉歌は、難波の港で、日の出前に筑紫へと先発する船を見送っての詠歌。ものの輪郭もまだ見定めがたい薄明の中を遠ざかってゆく船の行方を思いやる気持ちと我が身のこれからの行く末の見定めがたさゆえの不安とが二重映しになった深沈たる秀歌。












年の初めに掲げた三つの目標の達成状況

2018-12-15 23:59:59 | 雑感

 今年の年頭に掲げた私的な年間小目標三つのうち、水泳二千回は三月中に達成し、その後もかなり規則的通うことができ、今日で年間247回となり、年間240回という目標もすでにクリアしている。二つ目の目標は、萬葉集全歌通読であった。月によってかなり不規則になってしまったが、今日の時点で4396番歌まで読み、残りあと百二十首である。年末までには余裕をもって読了できるところまできた。三つ目の目標は、ヴォルテールの『寛容論』精読であったが、こちらは精読とまではいかなかった。原文は文庫本で130頁足らずの短い著作だから、ただ通読するだけなら一日で足りる。しかし、多様なるものの共存はいかにして可能かというその問いかけはきわめて重大であり、諸家の言う通り、まさに現代に読み直されるべき古典に違いないのだが、その問題に正面から向き合うにはこちらが精神的に準備不足であった。各国各所様々な仕方で不寛容が蔓延しつつあるこの年の暮れ、冬休み中を利して集中的に精読したい。












学会のためのパリへの日帰り出張

2018-12-14 17:28:30 | 雑感

 今日は一日パリへの出張であった。二年一度のフランス日本学会(Société française des études japonaises=SFEJ)の総大会で、セッションの一つの司会を頼まれていたからだ。その発表は四つ。それぞれ持ち時間は発表・質疑応答合わせて三十分、計二時間のセッションのである。この午後一時半からのセッションの司会のためだけの出張だったが、朝早めに出て、サン・ミッシェル大通りその他のの本屋に何軒か寄ってから会場のEHESSに向かう。総大会であるから、事務局を担当しているストラスブールの同僚ばかりでなく、他大学の知り合いの先生ともこの機会に久しぶりで顔を合わせることも少なくない。ただ、私はこの手の大掛かりな学会が苦手で、自分の責任を果たしたら、早々にストラスブールに戻れるようにTGVのチケットも購入してあった。この記事はその復路のTGVの中で書いている。
 発表者は、いずれも若手の研究者たち。一人は、イナルコの哲学研究グループのメンバーで、昨年11月に九鬼周造についてのきわめて優れた博士論文(早ければ来年、哲学専門の出版社の老舗 Vrin から出版される)によって博士号を取得した若手哲学研究者の期待の星。私もかねてからよく知っている。母親が日本人で、完璧なバイリンガルである。今イナルコで教えている。発表テーマは、大正・戦前昭和における〈個〉〈種〉〈類〉概念の変遷についての思想史的研究。他の三人は今回が初対面。一人は、先月、近現代日本における警察組織の変化についての社会歴史学的研究によってEHESSで博士号を取得した日本人女性。今パリ第七大学で教えている。一人は、明日がパリ第七大学での博士論文の公開口頭試問だというフランス人女性。研究テーマは、1960年代から1970年代にかけての対人恐怖症の病理的研究と当時の日本人論との関係について。もう一人も日本人女性。現在EHESSの博士課程三年目。発表テーマは、十九世紀末の、伝染病研究所建設をめぐる政府側推進者たちと建設に反対する地域住民の争点についての歴史社会学的研究。
 いずれの研究も大変興味深く、的確な質問もそれぞれの発表に対していいくつも出て、セッションとしてはなかなかいい感じであったと司会者としても満足感を覚えつつ、この記事を書いている。
 これで年内の学外での仕事はおしまい。来週一週間、授業と会議のために大学には月から金まで毎日行かなければならないが、それが終われば、やっとノエルの休暇だ。24日にこちらを発って25日から年明け8日まで東京に滞在する。













「翻訳に「おしゃべり」も「でしゃばり」も「ひとりよがり」もいらない ―ドナルド・キーン『日本文学史 近世篇一』「序 近世の日本文学」の邦訳について」

2018-12-13 19:57:12 | 講義の余白から

 今年度から開講された学部最終学年通年必修科目の一つ「古典文学」の講義は、シラバス風に言えば、二つの学習目標を掲げている。一方で、古典文学を鑑賞するために必要な文学的基礎知識を身に付けた上で代表的な作品の原文に接すること。他方で、日本文学史全体を通観することができる統一的な「史観」を学ぶこと。後者に関しては、ただ一つの見方を与えるのではなく、いくつかの異なった(場合によっては対立する)複数の文学史観を提示し、文学作品はそれ自体で非歴史的に存在するものではなく、ある歴史観の中でしか読まれえないことを理解することがそのより正確な目標である。
 このような目標に近づくために、近世文学史についてすでに四つの異なった文学史観を授業中に提示したが、その一つがドナルド・キーン氏がその記念碑的大著『日本文学史』の中で提示している文学史観である。できるだけ日本語のテキストに接する機会を与えるために、英語原文ではなく邦訳を授業では使ったのであるが、その訳文に違和感をもった箇所が二つあり、原文を確認して驚いた。
 正直、「原著者から信頼されてるからって、調子に乗ってんじゃねえーよ!」(ここ、『チコちゃんに叱られる』の「ボーっと生きてんじゃねーよ」のトーンで読んでいただきたい)と訳者に言いたい気持ちになった。
 誤訳とは言わない。それに、これまで拙ブログでも繰り返し述べてきたように、まったく誤訳のない翻訳など、まずない。あったとして、それは一点の非の打ちどころのない絶世の美女ほどに希少な宝石ようなものである。
 そう認めた上でのこととして、以下に掲げる原文と訳文を比較していただきたい。

新しい文学の勃興が、政治的な意味での新しい時代の幕開きとはっきり平行を示すなどという偶然は、世界の歴史の中でも めったに起こらない。西暦一六〇〇年――つまり「天下分け目」の関ヶ原の役と軌を一にして起こった新しい文学は、そういう 意味できわめて例外的だったといえるだろう。

It seldom happens that the beginning of a new political era so exactly coincides with the creation of a new literature as in Japan about 1600, the year of the decisive Battle of Sekigahara.

 訳文の「偶然」に対応する語は原文にはない。最初に訳文を読んだとき、この語に強い違和感を覚えた。なぜなら、政治的新時代の幕開けと新しい文学の創造との同時性は、確かに世界文学史の中でも稀な現象であるとしても、それは決して偶然ではないからだ。キーン氏自身、これが偶然だと考えていなかったことは本文を読めば明らかなことである。
 訳者は、「偶然」という一語を加えて、気を利かせたつもりなのかもしれない。しかし、この一語の付加が示しているのは、訳者が肝心なことはなにもわかっていないということでしかない。「ひとりよがり」も甚だしい。なぜ、それ自体もっとシンプルで明快な原文をそのまま忠実に訳そうしなかったのか。こういう「でしゃばり」は百害あって一利なしである。
 次の個所は、訳者の日本語の感覚のおかしさを示している箇所である。

時代をもう少し進めて、関ヶ原の役の十年前までさかのぼると、以後二百七十年間の徳川時代にやがて開花を迎える詩歌、散文、演劇のうちほとんどすべてが、家康が全国制覇の足がためをしているまさにその時期に、ほぼ決定的に方向づけられたということさえできる。

If we include the developments of the last decade of the sixteenth century, we can say that almost every form of poetry, prose, and drama that would flourish for the next 270 years had largely been determined, even as the Tokugawa rules were strengthening their hold over the country.

 まず、「時代をもう少し進めて」に対応する表現は原文にない。それに、これは日本語の表現としておかしい。歴史の中でさらに古い時代へと立ち戻るとき、それを「時代を遡る」と言うことはあっても、「時代を進める」などとはけっして言わない。この表現は、まったく不必要であるばかりでなく、日本語として不適切である。これが自宅で身近な人たちとする他愛もないおしゃべりでのことであれば、目くじらを立てるほどのことではない。しかし、日本人には容易に書けないような記念碑的な大著『日本文学史』を書いてくれたキーン氏に対して、これではあまりに無礼ではないか。
 翻訳には、「おしゃべり」も「でしゃばり」も「ひとりよがり」もいらない。












昨晩のストラスブール市内銃乱射事件について

2018-12-12 23:59:59 | 雑感

 この不幸な出来事の犠牲になられた方たちに心からの哀悼の意を捧げるとともに、突然その最愛の家族失われたご遺族には謹んでお悔やみ申し上げます。

 事件を知ったのは今日の早朝、日本の友人からの安否を気遣うメールによってだった。慌ててネットで事件についての記事を検索した。テレビでもすべての報道番組が特報を流している。日本でもかなり大きくとりあげられているようだ。しかし、まだ犯人が捕まっていないし、全容がわからないから、もう少し情報を収集してからコメントしたい。
 朝8時前に、同僚から今日の授業をどうするか、相談の電話がかかってくる。授業は通常通り行う、ただし出席は取らない、試験が予定されていた科目については、試験を来週以降に延期する、という方針を伝える。彼女は午前9時からの授業だったが、結果として休講にした。通常60人ほどの出席者がある授業に数人しか来ていなかったからである。私の演習は午後4時からだったが、朝学生たちに、演習は通常通り行う、しかし無理して来ることはない、とメールで伝えておいた。三グループそれぞれのプレゼンが予定されていたが、二グループは全員出席、一グループは全員欠席。「これは偶然か、それとも示し合わせたのか」と冗談交じりに聞いたら、グループのメンバーのほとんどが事件の現場の近く大学寮に住んでいるからではないか、と出席者の一人が教えてくれた。
 学部生の中には、事件当時、現場の近くにいた学生たちもいて、幸い直接の被害者は大学関係者には誰もいなかったようだが、ショックで自宅を出られなくなってしまった学生たちもいる。そうメールで欠席理由を知らせてきた学生もいた。
 平和な街と言われるストラスブールでも、2015年のパリでのテロ以降、特にノエルの時期は、厳重な警戒態勢が敷かれてはいた。しかし、観光客が多数訪れるこの季節、市中心街周囲のすべての検問で完全な荷物検査が行われているわけではない。それに、先月から半ばにパリで始まり、今や全国に展開されつつある「黄色いベスト gilets jaunes 」と呼ばれる反政府運動の警戒のために動員されていた警察官・兵士たちに疲弊の色が見えていたこともある。それに、ここしばらく大きなテロもなかったことで若干の気の緩みもあったかもしれない。
 「ヨーロッパの首都」・「ノエルの都」を謳うストラスブール市は、かねてよりテロリストたちの標的の一つだった。今回の事件に何らかのテロ組織が背後で絡んでいるのかどうかはまだわからない。しかし、そのいかんにかかわらず、今回の事件は、今大きく揺れ動いているフランス社会の深部で増殖しつつある病巣を不幸な仕方で露呈させていると私には思われる。