内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

息が切れかけている

2020-02-19 23:59:59 | 雑感

 ちょっと息が切れかけている。今週は月から木まで毎日授業があり、かつ成績判定会議が木曜日にある。先週土曜日からずっと追い立てられるような気持ちで仕事をしてきた。頭がちゃんと働いていないのが自分でもよくわかる。今日の演習でもあまりうまく説明できなかった。
 今週末から一週間の冬休みに入る。明日木曜日の授業と会議が終われば、金曜日はもともと授業をもっていないから、少しは解放された気分を味わえるだろう。そう願う。
 翌週は土曜日のパリでの研究会に参加するために金曜日から泊りがけで出掛ける。発表するわけではないので気楽なものだが、なんとなく心弾まない。
 気持ちに余裕のない毎日を送っていると心が徐々に疲弊し弾力性を失っていく。あれほどこだわって続けていた水泳も今年に入ってさぼりがちだ。その時間がないほど忙しいわけではないが、続けることに疲れてしまったと言おうか。
 日も少しずつ長くなって来たことが夕方に感じられるようになるのがこの時期だ。それに合わせて気分も上向になっていくといいのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エリック・マンジャン『魂の夜 マイスター・エックハルトにおける知性とその働き』

2020-02-18 23:59:59 | 読游摘録

 本書 La nuit de l'âme. L’intellect et ses actes chez Maître Eckhart, Vrin, collection « Études de philosophie médiévale », 2017 は HDR (=Habilitation à diriger des recherches) 取得のために書かれた論文が基になっている。著者とは2016年8月末にストラスブール大学神学部での博士論文の公開審査のとき審査員としてご一緒したことがある。そのときのことは当日の記事で話題にした。
 エックハルトにおける知性論の重要な構成要素である九つの動詞に焦点を合わせて、そのそれぞれが神の言葉の魂における誕生にまでいたる知性の諸階梯を示していることを澄明な文体で鮮やかに示した見事な研究である。
 その九つの動詞とは、dépouiller, abstraire, élever, unir, saisir, s’émerveiller, chercher, écouter, prêcher である。最初の二つの動詞は同じ働きの二側面として取り扱われているから、階梯としては八段階に分けられている。
 「魂の夜」の「夜」は、魂において働く知性がその自らの働きによって見分けることができるものの彼方から到来する言葉を受け入れることができるようになるために通過しなくてはならない「何も見えない闇」という試練を意味している。
 マイスター・エックハルトにおいて、知性とは、魂の闇のうちにしか到来しない言葉がおのずから魂のうちで響き渡るようになるまでの夜の諸階梯を辿り続ける終わりなき探究の途にほかならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


手書きの手紙を学生たちに書かせてみたら

2020-02-17 17:17:29 | 講義の余白から

 二週間前のことです。学生たちに『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語~』の抜粋を授業中に鑑賞させた上で次のような課題を出しました。「自分で自由に状況を設定して手紙を書いてください。選んだ状況に応じて、それに相応しい紙・筆記用具・書体・文体を選んでください」という課題です。
 課題を見たとき、学生たちはちょっと困惑していました。無理もありません。一方で「自由に書いていいよ」と言っておきながら、他方でこれだけの条件を満たすことを要求しているのですから。
 今日がその〆切でした。授業のはじめに「宿題出してくださ~い」と言ったら、みんな一瞬躊躇ってから、なんとなく恥ずかしそうにそれぞれ手紙を持ってきました。
 その種々の形については、今日の記事に貼り付けた写真を見てください。二つ瓶詰めの手紙があるでしょ。これは私も想定外。「えっ、瓶詰めなの。嵩張るなあ。でも、まあいいや、このまま受け取ります」って言ったら、差出人の二人の女子学生は嬉しそうでした。手紙とは別に写真が同封されていたり、和紙の便箋にこれ以上繊細な字では書けないだろう字で綴ってあったり、それぞれかなり時間をかけて書いてくれた手紙がほとんどでした。
 まだ丁寧に読んではいないのですが、全部で約三十通の手紙にざっと目を通して、実は今ちょっと感動しているところです。実感・想像・空想等々、発想の源はいろいろなのですが、ほとんどすべて「本気」で書いてくれているからです。それもとても丁寧な字体で。なかには日本人顔負けの達筆もありました。
 十年後の自分宛に今の自分の煩悶を吐露する手紙、自分が望まれない子であることを知ったうえで両親の仲直りを切に願う手紙、愛する日本語へのラブレター、戦中の検閲を前提としてそれでも愛妻への想いを伝えようとする手紙、自分が自殺した後に読むであろう愛するロシアの兄宛の手紙等々、一つとして似通った内容はなく、それぞれいろいろ思案し、かつ楽しみながら書いてくれたことがわかる手紙なのです。
 こちらの期待をはるかに上回る手紙を書いてくれた学生たちに心より感謝します。その返礼として、情け容赦ない添削を差し上げましょうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日記をつけるのは不幸だからか ― K先生の酔狂随想集『暮らしの中の因果応報』(没企画)より

2020-02-16 23:59:59 | 随想

 人から強制されて読んだ作品でそれが面白かったということはあまりないように思う。国語の教科書で授業中に読まされたりすると、せっかくの名作であっても、素直に作品の中に入っていけなかった。もっとも、後に同じ作品を自分で自由に読んで楽しめるようにはなったけれど。
 読書感想文も嫌いであった。別に読みたくもない本を読めと強制され、しかもそれについてもっともらしい感想を書けと強要するのは非人道的な拷問である。小学校から中学にかけてかなりこの拷問を受けたはずだが、幸か不幸か、何を読んだかまったく覚えていない。
 中学まではろくに読書をしなかった。これは今さら後悔しても仕方がないことだが、子供のときに読んでおけばよかったような名作をだからほとんど読んでいない。読書熱に取り憑かれたのは高二のときだった。当時、我が家は暗かった。父が入退院を繰り返し、十二月に亡くなった。その暗さの中で読書に沈潜した。新潮文庫で読めるかぎりの太宰治の作品を数ヶ月で全部読んだ。
 その直後、不思議なことに、国語の成績が突然よくなった。それまではクラスの中の上といったところだったが、以後常にクラスのトップを争うようになった。だから今でも太宰治には感謝の気持を抱かずにはいられない。
 同じころ日記も付け始めた。格好をつけて言えば内省録であったが、実のところは鬱屈した心のはけ口だった。数年後に焼却した。哲学科の院生だった頃、「日記をつけるのは不幸だからだ」という自説を突然ぶちはじめた先生がいた。居合わせた別の先生が「私は昔からずっと日記をつけていますが、自分が不幸だとは少しも思いません」と反論したら、「それはあなたが自分の不幸に気づいていないだけだ」と日記不幸論者は譲らなかった。確かに当時の私は不幸だったのかも知れない。
 ここ十数年、その日の出来事をメモ程度に記す仏語日記をずっとつけているが、これは後になって何か思い出す必要があるときに結構役に立っている。日記をつけることは不幸だからだとしても、日記にはそれなりの効用もあるわけだ。
 今日は、授業の準備の一環として、教室で読ませたい文学作品を探していた。つまり、少年時自分がその犠牲者であった罪を今は学生たちに対して犯す側に回っているというめぐり合わせである。罪深い話である。
 その探索の合間、明治三十九年一月九日付の漱石の森田草平宛の手紙が目に止まった。当時漱石は東京帝国大学文科大学英文科講師・第一高等学校講師であった。前年に『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表し、この年の四月には『坊っちゃん』、九月には『草枕』を発表する。その手紙に、「僕もそれだから大に聡明な人になりたい。学問読書がしたい。従ってどうか大学をやめたいと許り思って居ます」とある。翌年四月に漱石はそれを実行に移し、朝日新聞社に入社する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エックハルトの「離脱」から『イミタチオ・クリスティ』のラテン語原文という彼方へ

2020-02-15 23:59:59 | 読游摘録

 昨年末から今年のはじめにかけて一時帰国したとき、御茶ノ水駅前の丸善で12月の文庫新刊がずらりと平積みされた書棚の前を何度も行ったり来たりしながら、迷った挙げ句に結局買わなかった一冊が講談社学術文庫版の『イミタチオ・クリスティ』であった。仏訳は新旧二つ所有しているから、それらを参照しながらラテン語原文を読めばいいかと邦訳を買うのをそのときは躊躇った。
 ところが、今朝、「電子書籍版が値下げ中です。この機会をお見逃しなく」という宣伝メールの魔の手にいともたやすく引っ掛かり、ポチッと購入ボタンを押してしまった。原本は一九七五年に刊行された。西洋古典学の大家呉茂一と中世ドイツ文学研究の碩学永野藤夫の共訳である。それに今道友信による長い序文が巻頭に置かれている。これだけでも充分すぎる品質保証である。それが昨年末に文庫化され、先月電子書籍版が刊行されたばかりですぐに値下げということであれば、買わないわけにはいかないではないか、という例によって理由になっていない独り言をつぶやきながら購入した。
 聖書に次いで世界中で多くの人に読まれていると紹介されることの多い本書だが、聖書が二千年近くの歴史を持っているのに対して、本書は成立後五百年前後で、しかも著者が一人の慎ましい修道者であったことを思い合わせると、ここまで広く読まれ続けているのにはやはりそれだけの理由がなくてはならないと思う。この理由については今道友信の序文に委曲を尽くして説明されている。
 今日の午前中、仏語のエックハルト研究書を机上に積み上げ、それらを随時参照しながら、エックハルトの「離脱 abegescheidenheit (détachement) 」と禅仏教における「放下」の比較研究をテーマに選んだ人文学科の学生の小論文の序論を読んでいた。論文の指定枚数に対してテーマが大きすぎてとてもこのままでは論文の体をなさない。来週火曜日に面談することになっているが、そこでどう助言するか頭を捻っていた。その面談の準備として序論にコメントを添えて返信したときは、もう正午をまわっていた。
 午後は、エックハルトの離脱に近似する教えがあるかどうか探しながら『イミタチオ・クリスティ』を少し読んでみた。が、こういう読み方は本書には馴染まないというか、すべきではないのかなともすぐに思った。第一巻「霊の生活に役立つすすめ」第一章「キリストにならい、世の空しいものをすべて軽んずべきこと」最終節にはこうある。

眼は見るものに満足せず、耳は聞くものに満たされない(伝道一の八)というあの格言を、しばしば思い出すがいい。されば、あなたの心を見るものへの愛着から引きはなし、見えないものへ移すように努めなさい。なぜなら、自分の官能の欲にしたがう人は、良心をけがし、神の恵みを失うからである。(呉・永野訳)

Rappelez-vous souvent cette parole du Sage : L'œil n'est pas rassasié de ce qu'il voit, ni l'oreille remplie de ce qu'elle entend. Appliquez-vous donc à détacher votre cœur de l'amour des choses visibles, pour le porter tout entier vers les invisibles, car ceux qui suivent l'attrait de leurs sens souillent leur âme et perdent la grâce de Dieu.

Traduction d’Abbé Félicité de Lamennais (1824) 

 ラテン語原文は簡潔を極め、多数の訳者たちの仲介を経なければとてもではないが原文の含意にたどりつけない。

Stude ergo cor tuum ab amore visibilium abstrahere, et ad invisiblia te transferre. Nam sequentes suam sensualitatem maculant conscientiam, et perdunt Dei gratiam.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「軍事的再軍備は、単に政治的神話によって引き起こされた精神的再軍備の必然的な結果にすぎなかった」― エルンスト・カッシーラー『国家の神話』より

2020-02-14 14:29:43 | 読游摘録

 カッシーラー『国家の神話』(講談社学術文庫 2018年)のことは、文庫版出版年の5月29日の記事で一度取りあげた。
 仏訳は1993年にガリマール社から出版されているが、ここ何年と古本市場でしか入手できなかったし、かなり高値が付けられていた。それが同社の « tel » 叢書の一冊として昨日刊行された(13,90€)。これで今こそまさに精読されるべきこの不朽の名著が簡単に入手できるようになったのは喜ばしいことだ。前期に「近代日本の歴史と社会」の授業で政治における神話の機能について話したときに本書に言及し、ぜひ読むようにと奨めておいたのだが、来週の授業で再度推薦図書として言及するつもりだ。
 英語で書かれた原書自体が全体としてとても読みやすい文章だからということがまずあるが、仏訳も大変読みやすい文章だ。ところが、上掲の一昨年の記事の中で引用した二番目の箇所、第十八章「The Technique of the Modern Political Myths 現代の政治的神話の技術」の一節の訳に抜けている文が三つあることに気づいた。

Myth has always been described as the result of an unconscious activity and as a free product of imagination. But here we find myth made according to plan. The new political myths do not grow up freely; they are not wild fruits of an exuberant imagination. They are artificial things fabricated by very skillful and cunning artisans. Il has been reserved for the twentieth century, our own great technical age, to develop a new technique of myth. Henceforth myths can be manufactured in the same sense and according to the same methods as any other modern weapon—as machine guns or airplanes. That is a new thing—and a thing of crucial importance (Ernst Cassirer, The Myth of the State, New Haven, Yale University Press, 1946, p. 282).

神話は、つねに無意識的活動の結果、あるいは自由な想像力の所産として記述されてきた。しかし、ここでは計画に従って作り出された神話が見出される。この新しい政治的神話は、ひとりで生育したものでもないし、また豊かな想像力の野生の果実でもない。それは非常に老練で巧妙な技師によって作り出された人工品なのである。新しい神話の技術を発達させることは、二十世紀、つまり現代の巨大な技術の時代において初めてなされたのであった。爾来、神話は現代における他のいずれの武器―機関銃や飛行機―を作るのとも同じ意味で、また同じ方法で製作されうるのである。それは新しい事態、しかもきわめて重大な意味をもつ事実である(講談社学術文庫 宮田光雄訳 483頁)。

Le mythe a toujours été décrit comme le résultat d’une activité inconsciente ainsi que comme une libre production de l’imagination. On sait qu’il existe des artisans très habiles et très subtils capables de fabriquer des choses entièrement artificielles. Il appartient au XXe siècle, cette grande époque technique, d’avoir développé une nouvelle technique du mythe. Les mythes ont dorénavant été fabriqués de la même façon et selon les mêmes méthodes que n’importe quelle arme moderne — qu’il s’agisse de fusils ou d’avions. C’est un fait nouveau — et un fait crucial ! (op. cit., p. 381)

 ご覧のように、“But here we find myth made according to plan. The new political myths do not grow up freely; they are not wild fruits of an exuberant imagination” (「しかし、ここでは計画に従って作り出された神話が見出される。この新しい政治的神話は、ひとりで生育したものでもないし、また豊かな想像力の野生の果実でもない。」)の三文が仏訳では落ちている。これはもしかしたら依拠した版の違いに由るのかもしれない。仏訳は原書の1946年版に依拠しているが、宮田訳は1950年の第三版を底本としている。
 それにしても、二十世紀の作為性・計画性のある政治的神話と無意識的で想像力の自由な所産であった過去の神話一般という両者の決定的な違いを指摘しているこの三文の欠落は、“They are artificial things fabricated by very skillful and cunning artisans.”という文が第一文には直接しないだけに惜しまれるところである。
 それはともかく、同じ段落の後半に見られる一九三〇年代のドイツにおける政治的神話の機能についてのカッシーラーの指摘は鋭くかつ現代の私たちにとっても警鐘を鳴らすものである。宮田訳を引いておく。

政治の世界がドイツの再軍備と、それがもたらす国際上の様々な影響について多少憂慮し始めたのは、一九三三年のことであった。事実上、この再軍備は何年も前から始まっていたが、ほとんど気づかれずにきたのであった。実際の再軍備は、政治的神話の生起ととともに始まった。のちの軍事的な再軍備は単に事後従犯にすぎず、犯罪行為そのものは、ずっと以前の既成事実であった。つまり、軍事的再軍備は、単に政治的神話によって引き起こされた精神的再軍備の必然的な結果にすぎなかったのである。(483-483頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


レジグナチオン(諦め)に深く浸されながら、前を向くには

2020-02-13 17:40:44 | 雑感

 昨年12月5日に始まった年金改革法案反対のストライキやデモ行進はさすがに沈静化してきているが、それと入れ替わるように、大学及び研究機関での労働環境の悪化とポストの不安定化を助長する法案を糾弾する一斉メールが最近連日のように大学関係のさまざまな組合から届くようになった。所属している学部でもその改革法案に反対する声明が採択されようとしている。
 正直なところ、それらのメールの長い文面にいちいち目を通している時間はないので、正確なところを把握しているか怪しいところもあると断った上での話であるが、専任ポストにかわる雇用年限付きポストの増加、年間教授時間数規定の廃止、研究費の削減等が主な争点のようである。要するに、大学の正規雇用の教育研究員(つまり主に教授と准教授)の立場が今後ますます危うくなっていくということである。それに応じて教育研究以外の雑用の負担は増大の一途を辿っている。
 利潤の追求を至上目的とする企業型の論理が大学内にも蔓延するようになり、生産性が高く社会的貢献度の高い花形分野以外の「生産性に乏しく無用な」分野では、近い将来のかなり現実性の高いシナリオとしてその悲惨な末路が視界に入ってきている。
 生涯官人として輝かしい要職を歴任した森鴎外大先生のお言葉をこのような文脈において引くのは大変気が引けるが、今の私の心持ちによく合っている言葉はやはり「レジグナチオン」(Resignation 諦め)である。もうどうにもならんと思う。私のような役立たずの大学教員はまさに「絶滅危惧種」であり、しかもいかなる自然保護団体の保護活動対象にも認定される見込みはまったくない。
 官憲に罵声を浴びせる元気どころか、負け惜しみをつぶやく気力さえ湧いてこない。ただ、いかにレジグナチオンに深く浸された日々であっても、授業の準備だけは手を抜かない。どれほど劣悪な環境であれ、教師であるかぎり、その本来の使命において最善を尽くすべきだという倫理観だけが今の私の心を辛うじて支えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鴎外作品のシンクロナイズド・リーディング

2020-02-12 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は一日家に籠もって明日の授業の準備をしていた。ただ、ほぼ二〇分おきくらいに仕事のメールの処理を挟んでのことだったので、準備に集中できたとはとても言えない。明日の授業では森鴎外を取り上げることになっているが、そもそも二時間の授業一回だけで鴎外の人と作品について一通りの話をすること自体に無理があるので、準備をすればするほど、話すべきことと話せることとの間の落差が拡大し、それに煩悶させられることになってしまった。
 漱石の主要作品がすべてフランス語に訳されているのに対して、仏訳されている鴎外の作品の数はかなり寂しい。二十年前に比べれば多少状況は改善されているけれど、史伝三部作『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『北条霞亭』は未だ訳されていない。これらの大作の翻訳はまことに容易ならざる大事業であることはわかるし、仮に訳業成ったとしても、あまり売れそうにない。日本でも、短編の歴史小説群や『舞姫』以外はそれほど読まれているとも思えない。
 明日の授業では、駆け足で鴎外の生涯・業績・主要作品を紹介したあと、仏訳のある歴史小説の中の二作品から、それぞれ一節ずつ原文を紹介する。紹介するのは『安井夫人』と『最後の一句』。その紹介の仕方は以下の通り。
 まず、スクリーンに映し出した原文を私が朗読する。その際、学生たちには言葉の響きと文章のリズムに注意を集中させる。次に原文の下に仏訳を映し出し、それを目で追わせながら、もう一度原文を朗読する。こうすることで鴎外の彫琢された文章の味わいとその文章が換気するイメージをシンクロナイズさせることを試みる。これを段落ごとに繰り返す。
 その結果として、学生たちが全文を読んでみようという気になってくれれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言葉という糧、あるいは食材辞典としての辞書

2020-02-11 23:59:59 | 雑感

 今日の記事のタイトルの前半をご覧になって、何か聖書的な「匂い」を嗅ぎつけられた方ももしかしたらいらっしゃったかもしれません。ですが、タイトルの後半からわかるように、以下の話は聖書とは何の関係もありません。
 もっと端的で普通の意味において、言葉は、ちょうど食べ物のように、私たちが生きていくためになくてはならない要素だというのがタイトルのこころです。例によって、「何を今更」的な話に過ぎません。
 健康維持のために摂取する必要がある食物の種類がさまざまであるように、言葉にもさまざまな味わい・響き・肌理などがあり、その働きも多様です。同じ言葉が主食の出汁にもなれば、副食の隠し味にもなります。
 辞書はさしずめ言葉の食材辞典です。語釈は、その言葉の生い立ち、その言葉がどんな栄養素からなり、どんな料理に合い、調理の際にどんなことに注意すべきかなどの情報を与えてくれます。用例は調理例です。誰でも使えるような簡単な用法もあれば、文学作品から採られたプロの手並みを「味見」してみることもできます。
 辞書の中を「散策」していると、自分が普段から使い慣れていると思っていた言葉の意外な過去を知ったり、自分が正しいと思い込んでいた使い方が実は間違いであると気づかされたり、自分はそれでまでに出遭ったこともない珍しい食材を見つけて驚かされたりします。辞書に並んでいる言葉を眺めながら、それらからどんな料理が作れるか想像してみるのも楽しいことです。
 個々の食材が品質のいいものであっても、調理が下手ではそれらが台無になってしまうように、美辞麗句を並べただけで「美味しい」文章ができるわけではありません。身近な食材のたくみな組み合わせと適切な味付けによって食べ飽きのこない一品を作ることのほうが日常言語の暮らしの中ではより大切なことではないでしょうか。
 偏った食事を続けていると、しまいには体を壊すことがあるように、言葉遣いに無神経でバランスを欠いた話し方や書き方を続けていると心が荒んでくるように思います。これは他人事ではありません。美食ばかりしていると、味にうるさくはなるでしょうけれど、すぐに息切れするようなやわな体になってしまいかねないように、ここちよい言葉に酔っているだけでは、骨のない軟弱な何を言いたいのかよくわからない文章しか書けないでしょう。
 毎日の食事を手抜きせずに作り食することが体の健康の礎であるように、会話でも文章でも、毎日の言葉遣いに気をつけることが心の健康の基本であると、今更なのですが、つくづく思い知らされている今日このごろであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


怒りと悲しみと虚しさと諦めの四重奏

2020-02-10 18:01:26 | 雑感

 拙ブログの基本原則、といってはいかにも大げさですが、自ら課しているルールがいくつかあります。より正確に言うと、禁止事項です。これまでも何度か折り触れて話題にしたことがあります。ちゃんと数え上げたことはありませんが、ざっと思いつくままに列挙すれば以下の通りです。
 他人の悪口は書かない(ごく常識なことで、ルールと呼ぶまでもないかもしれません)。似たようなことですが、誰のことがわかるような個人攻撃はしない(こう書くと、「じゃあ誰のことかわからないような仕方で攻撃することはあるわけ?」と混ぜっ返されそうですが、それもありません。それにもしそんなことしても相手にはわからないわけですから、攻撃したことにならないですしね)。他人に迷惑になることは書かない(これには細心の注意を払っているつもりですが、こっちにそのつもりがなくても、迷惑がかかってしまったことがもしかしたらあったかも知れません。ただ、それは苦情をいただかないかぎり、こちらにはわかりません)。人が秘密にしておいてほしいことを暴露するようなことも書かない(そもそも人から大事な秘密を打ち明けられることがほとんどありませんから、あまり気にすることはないのですが)。噂でしかないことをさも事実のようには書かない(人を騙すことになりますからね。あっ、でも悪気のない冗談は許されたし)。人が読んで不快になるようなことは書かない(これは予測不可能なことがあります。意図して不快にさせるようなことは書いてなくても、読んだ人が嫌な気分になるということは完全には避けがたいですね)。
 とまあ、ずらずらと書き並べたわけですが、実を言うと、ここまでは前置きなのです。
 正直に申し上げますと、今、かなり重く暗い気分に襲われていて、それに抗しながらこの記事を書いています。上掲の禁止事項をすべて遵守して書くと、結果としては、読んでくださる方に何のことだかわからない話になってしまうのですが、それでも書くのは、もっぱら書き手の精神衛生のための自己療法の一環とご理解いただければ幸甚です。
 今日の午後の授業の後、怒りと悲しみと虚しさと諦めの四重奏がずっと心を領していて、何もする気になれない状態です。怒りがこみ上げてくると、その行きどころのなさゆえの虚しさが怒りを沈静化し、虚しさが心に広く浸潤すると、それが徐々に心のさらに深いところで悲しみに変質してゆき、その挙げ句に諦めの深いため息が出て、気分の循環に一旦終止符が打たれます。すると一呼吸おいて、怒りのテーマから変奏曲が始まってしまうのです。変奏のされ方は、天候やそのときいる場所によって異なります。今のところ、第何変奏まであるのかわりません。こういう精神状態のときは、耳は音楽を受けつけないので、好きな音楽も聴けません。
 今晩はさっさと寝て(こんな状態でも不眠に苦しむことはないのは幸いです)、早起きして当日の授業の準備をすることにします。