ここ四年、「近代日本の歴史と社会」の授業で、前期の二回を充てて苅部直の『「維新革命」への道 「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書 2017年)の序章を読んでいる。その読解作業の過程で補助テキストを併せ読む。こちらのテキストは毎年変える。今年は、本書の第四章「大坂のヴォルテール」の一節「町人の学校、懐徳堂」を読み、懐徳堂の成立と発展の経済社会的背景と思想史における意義について学ぶことにしている。さらに、その一節に引用されている宮川康子の『自由学問都市 大坂 懐徳堂と日本的理性の誕生』(講談社選書メチエ 2002年)も併せ読む。
苅部は、宮川の論述を、「大坂という都市の空気のなかに懐徳堂を位置づけた、的確な指摘」と評価しているのだが、宮川書の当該箇所を読んで、率直に言えば、確かにと頷ける点もあるが、ちょっと理想化し過ぎているのではないかという感想を持った。しかし、私にはその論述を批判的に検討できるだけの知識も素養もないから、授業では、懐徳堂についての一つの評価としてそのまま紹介し、もっぱら日本語の読解テキストとして扱うつもりである。学部三年レベル読解テキストとしてはまさに「好適」なのである。
以下は、苅部が言及している箇所が含まれている第一章「町人学問所懐徳堂」からの引用である。
懐徳堂は、学問を媒介として、商人という身分に限定されない、いわば身分横断的な交流を可能にする場所であった。そこには五同志をはじめとする商人たち、中井甃庵のような逼塞した武士の子孫、商人の子として生まれながら民間の儒者として短い生涯を終えた富永仲基、儒者として仕官するが意にみたずに致仕した五井蘭洲など、さまざまな境遇の人間がいた。そして門人たちの中には大坂在住の武士もまじっていたし、学寮を備えた懐徳堂には、地方からもさまざまな身分の学生たちが集まっていたのである。
その学寮に安永二年(一七七三)、掲げられた「定」は、このような懐徳堂のあり方を象徴しているといってよいだろう。その第一条には、「書生の交は貴賤貧富を論ぜず同輩たるべき事」とある。そして懐徳堂の中では、社会的身分にかかわらず、ただ長幼や入門の新旧、学問の深浅などによって互いに席を譲り合うことが明記されたのである。
懐徳堂の内部においては、外の世界の社会的身分や貧富の差は意味を持たない、意味を持つのは、長幼、入門の新旧、学問の深浅だけであるというこの言葉は、学問における平等を宣言しているだけではなく、社会的身分や職分を離れた、いわば純粋な人間という存在を前提としている。すくなくとも懐徳堂の内部においては、ただ一個の学ぶ者として自由に考え、議論することができるということ、しかもその懐徳堂は、幕府からの永久拝領地として公に認められた場所だということは重要な意味を持っている。
懐徳堂という場所の公共性は二重の意味を持っていることがわかる。ひとつは、公儀から免許を下され、竹山の言葉によれば、「公の役目の一端を担っている」という自覚。ここでの「公」は公権力とのつながりを含意している。そしてもう一つは、「貴賤貧富を論ぜず」誰でもが学ぶことができるという公開性と、そこに集まった人々が自由に考え発言することができるという意味での公共性である。公権力への接近は、後者の意味での人々の発言が、私的なものとして排除されてしまわないためには不可欠なものである。
しかし、この二つがたがいに対立する契機を含んでいることはあきらかであろう。公権力はその権威をゆるがすような思想と言論の自由を認めはしないし、政治的権力の外部に開かれた自由な討議の場は、公権力と既存の体制への批判を可能にする。
懐徳堂は、はじめから反武士的なイデオロギーによって作られたのではないし、商人階層のイデオロギーのみを代弁するものでもない。また大坂三郷の各地に作られた、地域に密着した共同体的郷校とも異なる。むしろ町内からかけ離れていくことで、一個の私人が、公的な政治や制度について考え、道について語ることのできる場所を切り開こうとしたのである。
町人の町大坂に生まれたこのような学問空間から育った思想が、武士的な発想に基づく学問とは、根本的に異なるものであることはいうまでもない。彼らは、むしろ従来の支配者的思考と既存の学問的権威を批判し、それに対抗していくことで、新たな学問の方向を模索していったのである。
このテキストを予習なしの初見で読んでほぼすべて理解できる学生は二十五名ほどの出席者中五、六人だろう。教室ではそのレベルに合わせて説明を行う。その説明について来られない学生のうち、やる気のある二、三の学生は授業後に復習するだろう。彼らから質問があればもちろん答える。それ以外の学生について、私は関知しない。勉強する・しないは彼らの自由である。その結果を自己責任として引き受けなくてはならないのは彼ら自身であって、私ではない。