内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ビザンティン美術では、なぜヨハネ黙示録が宗教図像から排除されたのか

2021-11-10 23:59:59 | 読游摘録

 『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)に収められた図版の解説を担当しているキリスト教図像学の専門家である石原鋼成による解説文「「ヨハネの黙示録」の図像学」によれば、ヨハネ黙示録の豊富なイメージの世界が、宗教・文学・思想のみならず、政治的・社会的にも、ヨーロッパ精神に深い影響を及ぼしている。
 その解説の中で、美術史におけるその影響に関して、東方教会世界と西方教会世界とのあいだに見られる大きな違いについて述べられている箇所が特に私の注意を引きつけた。
 ヨハネ黙示録の図像は、初期キリスト教美術からカロリング朝美術、ロマネスク美術、ゴシック美術、さらのミケランジェロ、ファン・アイク、デューラー、ハンス・メムリンク、エル・グレコなど、各時代のさまざまな様式の中で描かれ、多くの傑作を生み出した。
 ところが、ビザンティン美術では、黙示録は、ごく一部の例外を除いて、宗教図像のなかから除外されていた。その理由は何なのか。石原氏による説明は以下の通り。
 ビザンティン美術の理念は、古代ギリシア・ローマの古典主義的伝統のもと、すべての現実は宇宙(コスモス)の中で空間的に互いに秩序づけられており、万物は宇宙の秩序のうちに正しく配置されている、というところにあった。したがって人間も「理性的」にこの世界を洞察できる。このような思想的土壌では、黙示録のような人間理性を超絶する不思議なヴィジョンの連続など入り込む余地はない。
 他方、西方教会では、そのテキストとイメージの超絶性ゆえに、ヨハネ黙示録の図像表現が早くから望まれ、物語の全体にわたる連作も試みられた。ヨハネ黙示録の象徴は、初期キリスト教美術の中にも早々と取り入れられていく。
 東方教会と西方教会との間に見られる、ヨハネ黙示録に対するこの真反対とも言える姿勢の違いをどう理解したらよいのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黙示録から何を学べるのだろうか ― 救済なき世界での救済の可能性

2021-11-09 20:14:03 | 雑感

 昨日の記事の最後の段落で言及されている、『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の解説者が言うところのヨハネの黙示録の「実存的な意味」という表現に触発されての感想を一言だけ述べる。
 神なく救済なき世界に黙示文学は成立し得ない。最終的な救済信仰を前提としないかぎり、ユダヤ・キリスト教的な意味での黙示録はありえない。ユダヤ・キリスト教世界の外での終末論的信仰や言説に「黙示録(的)」という語を適用することは、拡大解釈としてはありえても、厳密な意味では不適切である。
 黙示録が現実的に有意味でありうるのは特定の信仰を共有している人たちの間だけであり、それを共有しない他の人々にとっては謎解き物語以上のものではない。たとえそれがどれほど魅惑的なイメージに満ちていて、読む者の想像力を刺激して止まないとしても。
 しかし、それでもなお、黙示文学から現実を象徴的に解釈する方法を学ぶことはできるように思う。あるいは、世界そのものを黙示録的に読むための方法をそこから学ぶことはできると言ったほうがいいかも知れない。なぜなら、私たちを引き裂く極悪なものの啓示としての現実を象徴的なものの啓示(アポカリプス)として繰り返し読み直し、現実の時間(クロノス)の終末の間近に迫った「時」(カイロス)を探し続けることが現代に残されたわずかな救済の途の一つなのではないかと思うからである。
 世界の終末の到来、そしてその後に最後の望みを託すのではなく、何かを最終的に見出すことによって救済されることを期待するのでもなく、身近に迫っているカイロスを待ちつつ探し続けること、それをけっしてやめないこと、まがいものをそれと見誤らないようにつねに注意深くあること、このような恒常的な待機の姿勢を保持することこそが救済なき世界に生きる私たちに残された唯一の救済の可能性なのではないのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黙示的未来描写の実存的な意味という残された問題

2021-11-08 00:00:00 | 読游摘録

 昨日の記事からの続きで、『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の解説の「六 文学的・思想的特徴」の後半から摘録する。

 著者は旧約聖書を利用するために徹底的探査をしているが、それは想像力の欠如のせいではなくて、キリストのゆえに信徒が耐えている苦難は預言されていなかったわけではないことを説明したかったからである。旧い預言は現在の状況を明らかにする機能を持っており、彼は旧約預言をその機能から説明する。それは歴史全体を統率する神の計画の一部をなしている。現在時の迫害における患難は、エジプトで奴隷とされたイスラエル人の苦難や、セレウコス王朝でユダヤ教を弾圧したアンティオコス・エピファネスの宗教政策との戦いにおけるイスラエル人の苦難と同じものである。神の言葉は永遠に留まり、救いの約束は古代にも有効であったと同じく、常に力強く、現実的であり続けるという確信からの旧約探査であった。
 本書は教会史のあらゆる時代を通じて、新約聖書の中では普通でない幻視的また象徴的な内容とその難解さのゆえに、神学的には絶えず論争の的となった。そのことは、本書が古代教会において最終的に正典文書の中に位置を占めるまで、とりわけ東方教会においては根深い疑いがあったことからも明白である。それは今日においても変わらない。黙示録に「終末史についての真正の使徒的記述」を見いだす者もあれば、ただ単に「われわれの信仰の歴史における歴史的危機の貴重な記念碑」を見いだし、そのキリスト教は「わずかにキリスト教化されたユダヤ教」にすぎないとする者もある。
 今日、黙示録を解釈するための学問的方法については、広範な一致が見られる。本書を著者の意図にそって、時代の隔たりを越えて理解するためには、表象や象徴の伝承上の意味を問い(伝承史)、著者がどのような近い終末の待望を告げているかを確定し(終末史)、著者の現在との関連づけから、終末が現在時にどれほど実現しているとみなされているのかを観察する(時代史)ことを欠くことはできない。これらの方法を用いて、個々の表象や象徴の意味を比較的正確に確定することは可能である。
 本書に反復や矛盾があり、またイエスの過去の顕現や教会の現在的な経験が終末史に織り込まれていることは、信仰者にとってのみ理解可能な、本質的な歴史の全体像を伝えようとしたことを示している。しかし、その本質像を作り上げる表象や象徴は、新約聖書の中心的な告知と緊張関係に陥る、ないしは矛盾する古代の世界像あるいはユダヤ教やヘレニズムの思想をも前提としている。それゆえ、本書において告げられた終末論的歴史観がどの程度その他の新約文書の使信内容と一致するのか、また、現代のわれわれにとって異質なその黙示的未来描写が、今日のわれわれにどのような実存的な意味を持ち得るのかという点について、今後なお説明されるべき本質的な問題が残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ユダヤ教的終末の黙示の完全なキリスト教化

2021-11-07 06:12:30 | 読游摘録

 今日明日の記事では、『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の小河陽による解説の第六節「文学的・思想的特徴」から摘録する。
 まず、ヨハネの黙示録が、ユダヤ教的黙示と同じ文学類型に属しながら、ユダヤ教黙示と決定的に異なる点が以下のように説明されている。

 一連の幻視的な像によって、近い未来に起こるはずの世界の終末についての事柄が描写される本書は、神話的素材や秘密に満ちた数、また天的世界の事柄についての啓示の手段としての幻や顕現など、ユダヤ教黙示と同じ文学類型に属する作品である。しかし、ここに見られる黙示的ドラマはユダヤ教的終末の黙示の完全なキリスト教化である。本書の黙示的歴史観はイエスの歴史的出現に基礎づけを持っている。ヨハネにとっては、初代キリスト教徒が自ら体験したこのキリストの出来事が歴史を支配する神に対する信頼の基礎なのである。イエスが中心に立つ救済史の思想が彼の歴史哲学の根底にあり、これが救いの確信を基調とすることを可能としている。

 ユダヤ教黙示は、神の救いの力の明らかな証しを見出すためには、イスラエルの偉大な過去に遡り、はるか昔の族長の神に頼らざるを得ず、預言の形をとりながらも、実際には過去の歴史についての概観を記している。それに対して、「幻視者ヨハネにとっては、終末的希望の根拠はイエスにおける神の救済行為とイエスの救済の業の完成への信仰であり、徹頭徹尾終末論的に規定されている。」
 本書は、旧約聖書の伝統的テーマや表象を取り上げつつも、それらを自分が構想した時代史に適用して解釈している。しかし、「それらの表象は決して時代史的な関連だけでは汲み尽くされないそれ独自の意味も持っている。それゆえ著者は、伝統的なテーマや表象に表現された普遍的また超越的な意味を踏まえて、彼自身の歴史を解釈したと言える。」
 本書の叙述に見いだされる具体的詳細はしばしば象徴的な意味を持っており、それ自体が教えとなっている。本書において、著者が神から教えられたと思った事柄が、象徴に翻訳され、象徴的事物・色・数のたたみかけによって記されている。
 しかし、著者は一貫性のある思想や自分の想像的幻を示そうとしたのではない。それゆえ、矛盾や一貫性のなさに気をとられずに、それらの象徴を普通の言葉に翻訳する必要がある。このような手続きを経なければ、黙示録で語られている事柄を理解することは不可能である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神の正義の最後的勝利への強靱な楽観主義に貫かれた神的歴史哲学

2021-11-06 11:51:40 | 読游摘録

 『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の小河陽による解説の第五節「執筆意図」から摘録する。

 最初の三章が本書に初めから含まれていたとするならば、本書が特別な必要のあった特定グループのキリスト教徒に向けて書かれたことは明らかである。著者は彼の使信が教会の礼拝で朗読されることを意図している。
 七つの教会に宛てられた手紙はこれらの教会の内部状況をうかがわせる。真の預言者として、著者は彼が教会の主から受け取り、教会員に伝えなければならない叱責や勧告を本書に記録する。全般的に、その背景になっている教会の精神的な弛緩・類廃への傾向が明らかである。ある教会は不道徳な環境世界の圧力に屈しつつある。ある教会は偽教師によって著者の目から見れば誤った道に踏み込んでいる。かくして、多くの教会が悔い改めへの呼び掛けを必要としているのである。しかし、それらの叱責や勧告は非難や懲罰を意図したものではなくて、むしろ励ましである。それは各々の手紙が、主の約束の言葉と、聞く備えのある者はそうするようにと言う勧めの句とで締め括られることが明瞭に示している。
 教会内部の精神的衰微は、教会と国家の間の緊張と対立がますます増大しつつあるという外部状況によってもたらされたものである。ローマ帝国の国家祭儀と支配者崇拝は、帝国内の雑多な民族からなる住民の間に政治的な忠誠心を植え付けるための政治的手段の―つであった。そのために、神殿や祭壇が帝国内の各地に建てられ、またそれらの宗教儀式を司る祭司たちが任命された。政治的手段であったからこそ、効率的な行政組織と司法権力とをもって、それらの国家祭儀に参加することが奨励され、必要によっては強制されさえしたのである。時と共に、死後に神格化された皇帝の崇拝は現存の為政者であった皇帝を生ける神として崇拝する祭儀へと進展し、強制力を強めることになった。

 余談になるが、この箇所を読んで、私は国家神道の形成過程を思い合わせざるを得なかった。

 ユダヤ人だけは民族固有の宗教の特殊性が公に認められて、これへ参加する市民としての義務を免除されていた。初期にはキリスト教はこの公認の宗教であるユダヤ教の陰に隠れて、国家祭儀への不参加を隠すことができたろう。しかし、一世紀末には、キリスト教はもはやユダヤ教内の一分派ではなく、独立した宗教とみなされるまでに伸展していたし、大多数のキリスト教徒が非ユダヤ人であったから、彼らもまた、国家の神格化である皇帝を礼拝する祭儀への参加が彼らの政治的な忠誠心の証しとして求められた。それに対する彼らの抵抗と拒否は弾圧と迫害、また場合によっては殉教の死を招くことになる。彼らの中には妥協を選び、国家祭儀に参加した者もあったろう。しかし、信仰かあるいは迫害かの選択に直面させられたとき、教会を去った者も少なくなかったろう。

 ここまでは、執筆意図というよりも、著者にこの黙示録を執筆させるにいたった歴史的背景と時代状況の説明であった。

 この状況が黙示録を生み出すきっかけとなった。ここで手をこまねいて見ていれば、予期される迫害の強化はひ弱い信徒の間にますます背教者を続出させ、遂には教会を雲散霧消に消滅させてしまうかもしれない。このような危機の只中で、本書の著者は筆をとった。礼拝するのは皇帝か、あるいは神か、完全なる忠誠心は皇帝に示されるべきかそれとも神に対してか、著者は信徒に対して、その二者択一を先鋭化させた形で突き付ける。彼にとって、その選択は永遠の滅びか、それとも永遠の救いかの間の選択であった。それと同時に、皇帝とその悪魔的な力はかならずや滅び、神の支配が貫徹するという確信に基づく終末の一大預言を与えるのである。現在ローマ帝国がいかに繁栄し強大であるように見えようとも、神の最後的な勝利は確実である。しかし、その勝利は敵対する勢力が地上を蹂躙し、多数の信徒を殉教の死に追いやった後にしかやって来ない。まさに、この恐ろしい患難と誘惑とが襲いかかろうとしている信徒に向かって著者は、ローマの支配の象徴である獣とバビロンの、それゆえサタンそれ自身の、最後的敗北と滅亡の一大ドラマを描き出して見せることで、希望の使信を彼らに伝えようとするのである。それによって、歴史を支配する神に対する信仰と希望とに彼らを踏みとどまらせようとする。著者の使信は神の正義の最後的勝利への強靱な楽観主義に貫かれた神的歴史哲学であり、本書を貫くテーマは悪魔的な諸力ヘの復讐ではなくて、神の民に示される神の恵みの摂理である。

 であるとすれば、ヨハネの黙示録を世界の終わりの預言の書としてのみ読むのは、本来の執筆意図から逸脱した貧困な解釈だということになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヨハネの黙示録の著者・成立年代・成立場所・資料について

2021-11-05 00:00:00 | 読游摘録

 『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫 2018年)の小河陽による解説の要点をまとめる。解説は六節に分かれており、それぞれ、著者、成立年代、成立場所、資料、執筆意図、文学的・思想的特徴について述べられている。今日の記事では最初の四節の要点を示す。
 この黙示録の著者についてわかっていることは少ない。著者は自分を預言者と呼んではいないが、自分の著作を「預言」と呼び、幻を見せてくれた天使に、「私は……あなたの兄弟である預言者たちと……同じ、〔神に仕える〕僕仲間なのだ」と言わせていることから、預言者としての自意識を間接的に示唆しているようである。小アジアの七教会と親交があったことは、著者が個別教会を越えた、この地域の指導的人物であったことをうかがわせる。
 本書の成立年代は、一世紀末のドミティアヌス治世とする説がもっとも説得力を持っている。
 成立場所については、小アジア西岸地方のどこかで編纂されたものであるという点で諸家の意見は一致している。しかし、それ以上に特定しようとする場合、パトモスあるいはエフェソと見解が分かれる。本書は小アジア西部の七つの都市にあるキリスト教会に宛てられているが、それらの都市はいずれも紀元一世紀のローマ属州であったアシア州にあった。
 本書は、全体にわたる一貫性のあるプランを有していない。種々の素材を利用して執筆された文書とみなすべきである。著者は旧約聖書に精通しており、本書の至る所でそれを引用ないし暗示する。著者は、旧約聖書を記憶から自由自在に利用し得るだけ熟知し、それを自分の黙示的な関心に沿って再解釈している。著者は黙示伝承にも精通していた。その他のキリスト教黙示文書との顕著な類似は、本書が初期キリスト教黙示文学を代表するものであることを示している。イエスの著名な教えがほとんど用いられておらず、またイエスの地上の生涯に対して完全に無関心であることは、本書が福音書を生み出した初期キリスト教思潮とはまったく別の潮流を代表するものであることを示している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


想像力をフル稼働させて黙示録を読む

2021-11-04 12:45:37 | 読游摘録

 昨日話題にしたヨハネの黙示録の仏訳の訳者による序論と黙示録本文の注釈はとても示唆的で興味尽きないが、黙示録のより基礎的な理解のためにまず小河陽訳『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫 2018年 原本初版 岩波書店 1996年)を読みながら摘録していきたい。本書には、キリスト教図像学の専門家である石原綱成の編集による黙示録に基づいた図版集が添えられていて、ヨハネの黙示録がどれほど西洋精神史に深い影響を及ぼしたかが豊富な図版とその解説によってよくわかるようになっている(ただ、この文庫版では図版がすべてモノクロなのが惜しまれる)。
 以下は、小河氏の「はしがき」からの摘録である。

 この書はヨハネと呼ばれる人物が世界の終末についての自分の幻視を物語った書である。彼はそれを預言者として語っている。しかし、それらは神が将来に備えた出来事、すなわち現在は天上において隠され、近い将来に人間世界に介入してくる未来の出来事を語っているだけではない。他方では、著者はすでに実現された世界の終末を、つまり、キリストの支配、サタンの敗北、信徒の救いについての、目に見えない神秘ではあるが、すでに現実となっている事柄を幻として見ているのである。そこに、彼の幻が持つ力強さの理由がある。
 著者ヨハネは、幻視を旧約聖書やいわゆるユダヤ教黙示という伝統世界で知られた表象や象徴を縦横無尽に利用して語る。彼はそれに依拠するのではなくて利用するのである。それは彼の言葉を理解しようとする者にも、彼と同じように表象や象徴の世界を自由自在に駆け回るだけの想像力を要求する。西洋諸国の教会伽藍の種々様々なステンドグラスや壁画は、あるいは黙示録注解書にちりばめられた挿し絵は、歴史において人々が馳せ巡らせたそのような想像力の記録の一部である。本書はそのうちのごく一部を黙示録本文と共に収めたものである。それは黙示録の世界の豊かさを証言する一つの試みではあるが、もしそのことが読者の想像力を一定のイメージに固定させてしまうとすれば、黙示録が持つ無限の世界に一つの限界を定めることになってしまう。読者諸子は、過去の読者が働かせた想像力の記録である図版をてこに、さらなる想像力を働かせて、本文が持つ創造力の豊かさを体験していただきたいと願う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黙示(apocalypse)が啓示するものの両義性

2021-11-03 23:59:59 | 読游摘録

 今、この記事を書いている机上に『ヨハネの黙示録』の仏訳 L’Apocalypse de Jean, traduite et commentée par Jean-Yves Leloup, Albin Michel, coll. « Espaces libres », 2020 (1re édition 2011) がある。先日他の一書をネットで注文したとき目に止まり、その数日後に購入した。
 日本語では、世界の終末を予告するかのごとき大災害や大惨事が起こったときに、見る者聞く者に言葉を失わせるようなその惨憺たる光景を形容するときに、「黙示録的」という言葉はあまり使われないと思うが、フランス語では、そのようなとき apocalyptique という形容詞がしばしば使われる。
 広くは黙示文学的なもの一般を指す形容詞だが、現代世界の終末論的光景について使われるときには、特に新約聖書の「ヨハネの黙示録」が念頭に置かれている。あるいは、「ヨハネの黙示録」の中の具体的なイメージとは直接的な関係なしに、「世界の終末を預言するかのような」という意味で使われる。
 しかし、ギリシア語の apokalupsis は「啓示」を意味し、動詞 apokaluptein の派生語である。この動詞は、具体的には、「覆いを取り除く」ことを意味する。だからもともとは、世界を終わらせるような大惨事を預言するという限定された意味ではなかった。「ヨハネの黙示録」のあまりにも強烈なイメージが原語本来の意味を覆い隠してしまい、そこからさらに言葉だけが独り歩きして、ひたすら否定的な意味をもつ言葉として一般に使用されるようになった。
 上掲の仏訳の序論で、訳者は、「ヨハネの黙示録」には、極悪なもの(diabolique)の啓示と象徴的なもの(symbolique)の啓示という二つの啓示があることに読者の注意を促している。前者 diabolos は、「間に割って入るもの」「二つに引き裂くもの」「消尽させるもの」を意味し、後者 symbolon は、「何かと共にあるもの」「共存するもの」を意味する。
 ところが、現代のメディアでは、前者の意味ばかりが強調され、後者の意味は半ば忘れられている。世界の終末を告げるかのような出来事の極悪な側面ばかりを強調するメディアは、その極悪な出来事がそれと共に啓示しようとしている「賢者の石」(pierre philosophale)について語ることは稀である。しかし、隠されるという仕方でしかそこにありえないものを啓示するのもまた黙示なのであり、黙示録のメッセージを聴き取るためには、その象徴形式の黙示の読解を必要とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


何か嫌なんだよなあとしか思えない情けない現実の中で迷い、老いゆく私

2021-11-02 22:04:10 | 雑感

 新渡戸稲造の『武士道』の最終章第17章「武士道の将来」の英語原文にghost という言葉が出て来る。原文は以下の通り。

What won the battles on the Yalu, in Corea and Manchuria, were the ghosts of our fathers, guiding our hands and beating in our hearts. They are not dead, those ghosts, the spirits of our warlike ancestors. To those who have eyes to see, they are clearly visible.

 ここでの ghost に、矢内原忠雄訳は「威霊」、奈良本辰也訳・山本博文訳・山本史郎訳は「霊魂」、大久保喬樹訳は「霊」を訳語としてあてている。Oxford Advanced Learner's Dictionary によると、ghost   とは、the spirit of a dead person that a living person believes they can see or hear ということだから、確かに亡霊や幽霊ではない。
 ラフカディオ・ハーンがこの語を使うときも、何かこの世に生きている人間とは違った、しかしそれ固有の生々しい実在性をもった存在の意味で使われている。新渡戸は『武士道』の中で何度かハーンに言及しており、その著作を読んでいたことは間違いない。それに影響されたということではないと思うが、両者の ghost についての感じ方には近似したところがある。
 だからといって、ここでの新渡戸の使い方に私が共感を覚えているということではない。むしろ逆である。何かついていけないもの、もっと言えば、何か嫌なものを感じるのをどうすることもできない。
 近頃というか、特に2011年の東日本大震災以降に目立ってきたように思うのだが、霊性ということをやたらに強調する人たちがいて、それらの人たちの言説や書物が結構注目されていたりする。それもとても嫌なのである。言っておくが、僻みではない。見える人には見えるとか、聞こえる人には聞こえるとか、そういう話で自己の確信を正当化し、そういったものを失ってしまったのが現代人の不幸なのだ、という類の話が、私には、精神的に何か「不健康」に思えて、とても嫌なのである。きっとそういう人たちは、私に向かって、そういうお前が不健康なんだよ、と切って捨てるように言うだろうけれど。
 『武士道』を今年の修士演習の課題図書に自分で選んで置きながら、こんなことを言うのは本当に学生たちに申し訳ないと思うのだが、今回、真剣に最初から最後まで繰り返し読んでみて、私個人の偽らざる感想を一言でまとめるならば、「げんなり」である。
 いったいなんでこの本は近頃こんなに「人気」があるのだろうか。上掲の現代語訳のうち、山本博文訳が2010年、大久保訳が2015年、山本史郎訳が今年刊行である。この十年ほどでこれ以外にも現代語訳が刊行されている。そんなに売れるのだろうか。読んだ人は何を感ずるのだろうか。
 かといって、『武士道』を縁遠い異国の昔話のようにしか読めない現代の若者たちに共感しているのではない。そういう彼らには、この世界的ベストセラーに対する違和感がどこから来るのか、突き詰めて考えてほしいとは思う。
 他人事ではない。きわめて確からしいことは、「何か嫌なんだよなあ、こういうの」程度の考えしか持てない私が、老境に至ってなお倫理的な迷子ちゃんだという情けない現実を生きているということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


校正原稿送付。今後の原稿。明日から前期後半開始。なにはともあれ毎日走る

2021-11-01 19:23:13 | 雑感

 今年中に出版される雑誌に掲載される二つの原稿のゲラの校正を今朝方終え、それぞれ編集者と印刷所へ送った。これで今年中に印刷物として発表される原稿はいずれも手を離れた。校正のために再読していて、どちらも上出来とはどう贔屓目に見ても言えず、忸怩たるものがあるが、これ以上のものが書けたとも思えず、所詮この程度である自分を受け入れざるを得ない。
 今後の執筆原稿の予定は、今月二五日・二六日のパリ・ナンテール大学のシンポジウムと来年三月のストラスブール大学のシンポジウムでの発表原稿である。前者はフランス語、後者は日本語で書く。前者は、いただいたお題に答える形である。同じ問題を取り上げた論文を過去にいくつか書いているので、わりと気楽に構えている。後者は、はじめて取り上げるテーマで、構想はこの夏からすでに練り始めている。まだ時間があるから、年内は参考図書を読みながら、問題を絞り込んでいく。
 今日の万聖節の月曜日で休暇も終わり。明日から前期後半の授業が始まる。明日に予定されていた修士二年の演習は、学生たちの要望で開始を一週間遅らせた。それでも年内には予定の回数はこなせる。今月は、通常授業に加えて、修士一年向けの方法論演習が一コマ(三時間)、学部二年生向けの方法論入門一コマ(二時間)もあって、ちょっと忙しい。
 休暇中も日課のジョギングは休まず続けた。昨日は十五キロ、今日は十三キロ走った。ちょうど二週間前に痛みを覚え始めた右足裏の鶏眼も、塗布している薬のおかげで徐々に柔らかくなり、それに応じて痛みも軽くなっている。今日は二週間ぶりに足裏に何の手当もせずに走ってみたが痛みを感じることはなかった。それだけで嬉しく思った。これからも、悪天候の日を除いて、毎日走り続けよう。