内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

修士一年「近現代思想史」期末試験問題 ― 運命愛と「みずから」、ニーチェと九鬼周造への共感あるいは反発

2022-05-11 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の午後、修士一年の演習「近現代思想史」の筆記試験が行われた。筆記試験といっても、パソコン持ち込み可とし、答案はWORDで作成し送信させるという形式にした。手書きだと書くこと自体に時間がかかるから、その制約から学生たちを解放し、試験問題を考えることに集中し、書きたいだけ書かせるためである。使用言語は仏語を原則としたが、日本語でもいいかと事前に聞いてきた学生が一人いたので許可した。
 まだ、答案を受け取っただけで読んではいないが、仏語で書いた学生の答案はA4版で4枚から6枚、日本語で書いた学生は1,200字あまりと、力作が揃った。
 問題は、授業で読んだ九鬼周造の二つのテキストからの抜粋をまず注解し、それに基づいて自由に自分の考えを述べることを求めるものであった。一つ目のテキストは1937年1月に行われたラジオ講演「偶然と運命」の終わりの方でニーチェの『ツァラツストラ』に言及しつつ運命愛について語られている箇所、二つ目のテキストは1934年10月『理想』に掲載されたエッセイ「人生観」の中で「みずから」と「おのずから」との区別が問題になっている箇所である。この両者をうまく重ね合わせて論じることができているかどうかが評価の際のキーポイントの一つになる。
 この二つのテキストを読んで、学生たちはニーチェあるいは/そして九鬼への強い共感あるいは反発を感じたようで、それが刺激となって、真剣に問題に取り組んでくれたようである。最長の答案を書いた学生は、パスカルの『パンセ』(授業で私が言及したからであろう)とニーチェの『ツァラツストラ』(授業で引用した GF-Flammarion 版)をパソコンの両脇に置いて答案に取り組んでいた。答案を提出した後、夜になって、答案に書き忘れたことを付け加えたいとメールを送ってきた学生もいた。
 答案をすべて読み終えた後、総評をこのブログで述べたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


クレジットカードの不正使用、やられてしまいました。皆様もどうぞご注意を!

2022-05-10 21:14:09 | 雑感

 普段、何事にもわりと慎重派の方だと自認していたのですが、ボケてきたのでしょうね、迂闊にも、SNSを利用した詐欺に一昨日引っかかってしまいました。たった数時間のうちの出来事でした。被害総額は二十数万円です。私にとってはけっして小さな額ではありません。
 日曜日の夜、ストラスブールの健康保険局から健康保険カードの更新を知らせる通知がSNSで届き、その新カード郵送のために必要な情報の一つとして、送料を支払うためのクレジットカード番号を入力することを求めてきたのです(後から知ったのですが、最近よく使われる手口だそうです)。その時点で変だと思うべきだったのですが、ほんとうに迂闊なことに、それらの情報を送信してしまったのです。
 その翌日、つまり昨日月曜、日に数回チェックするクレジットカード専用の口座を昼過ぎにネットで確認して、仰天しました。わずか一、二時間ほどの間に、カードによる買い物が五回繰り返されていたのです。その時点では、どこでその買い物がされたのかわからず、先程になってようやく、すべてボルドーでされた買い物だとわかりました。まちがいなく、私のクレジットカード・データの不正使用です。
 今さっきカード使用停止手続きを完了したのですが、そのときの担当オペレーターの話によると、それはアップルペイを悪用したものだとのことです。
 明朝、当該クレジットカード会社に新カード発行と被害補償の申請をします。全額は補償されないかも知れませんが、いくらかでも返ってくればと、諦め半分ですが、願っています。いずれにせよ、カード不正使用の手口について、大変高い「授業料」を払わされてしまいました。
 読者の皆様は私のようなボケではないことと拝察いたしますが、皆様、どうぞくれぐれもお気をつけくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鞭打たれる馬に涙を流す ― ドストエフスキーとニーチェ

2022-05-09 23:59:59 | 読游摘録

 1889年1月3日、イタリアのトリノのカルロ・アルベルト広場でニーチェは昏倒し、以前から狂気の兆候を示していたその精神は最終的に壊れた。以後、1900年8月25日にワイマールで亡くなるまで、ニーチェの精神は闇に沈んだままだった。
 その日、昏倒する直前、その広場で馭者に激しく鞭打たれていた馬の首にニーチェは抱きつき、涙を流す。
 真偽はもはや確かめようないこの出来事について、ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』の中にこう記している。

 それは一八八九年のことで、ニーチェはもう人から遠ざかっていた。別のことばでいえば、それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。(千野栄一訳)

 そして、「私が好きなのはこのニーチェなのだ」という。この出来事を最初どの伝記で読んだのかもう覚えていないが、胸を突かれる思いをしたことは覚えている。そして、ドストエフスキーの『罪と罰』第一部第五章で詳しく描写される、夢のなかで幼少期に帰ったラスコーリニコフが見る光景を思い起こさずにはいられなかった。その夢のなかで、少年ラスコーリニコフは、惨たらしく鞭打たれる馬に涙を流す。
 この符合は何を意味するのだろうか。ふと気になったので書き留めておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


風薫る皐月のベランダ水洗い

2022-05-08 15:13:55 | 雑感

 毎年、この時期になると、自宅のベランダを水洗いする。マイ年中行事の一つである。晴天に恵まれた日曜の今日、その「お水洗い」が午前中に粛々と行われた。
 秋から冬にかけては、舞い込む落ち葉が気になったら掃き掃除するくらい。真冬の水洗いは、たとえ晴天でも、水が冷たすぎる。ようやく春になり、陽気もよくなってくると、ベランダのタイルの汚れが目につくようになり、洗いたくなる。でも、ベランダの前を覆うように茂っている樹々の花が散り尽し、胞子がすっかり飛び立つのを待つ。それまでは、せっかく洗っても、すぐに色とりどりの花弁や綿毛のような胞子がまたベランダに舞い降りてくるからだ。
 幅が1,1~1,8メートル、長さが8メートルほど、およそ12平方メートルくらいの小さなベランダだから、洗うのにそんなに時間がかかるわけではない。半年間にタイルにこびりついた汚れを、タイル床用の洗剤・水・ブラシを使って落としていく。タイル一枚一枚を丁寧に隅々まで洗う。水道の蛇口からホースで水が流せれば楽なのだが、それはできないので、二つのバケツを使う。全部洗剤で洗い終わったら、何度も水を流す。泡が完全に消えるまでそれを繰り返す。
 今年の「お水洗い」もかくして一時間ほどで滞りなく終了した。今、それを言祝ぎながら、祝杯を上げているところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メディア・リテラシー後期期末試験問題と答案についての総評 ―「私たち」とは誰のことか

2022-05-07 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日がメディア・リテラシーの後期期末試験であった。いつも目の前の雑務に追われて後回しにしてしまいがちな答案採点を今回は迅速に行った。昨日と今日ですべて採点した。というと、さも数が多そうに聞こえるかもしれないが、たった二十枚であった。だから、一気に方を付けることができた。
 試験問題は以下の一問。それに対して答案用紙見開き二頁以内で答えよ、というのが条件。

Lisez d’abord les deux textes suivants lus en cours et un texte complémentaire sur la démocratie :

(1) 裁判員時代を迎えた今、「死刑の基準」とは何かという問いは、私たち一人ひとりに向けられたものである。これに対する私たちの意思、その結果が、厳罰化に拍車をかけることになるのか、それとも立ち止まって考えることになるのか、あるいは死刑廃止へと向かうのか。それはまだ、誰にも分からない。「死刑」という究極の刑に対して、私たちの正義と英知、そして人間性が、今まさに問われている。

堀川惠子『死刑の基準』(日本評論社 2009年 講談社文庫 2016年)

(2)アルゴリズムのメカニズムにより、人々は自分が欲する情報に優先的に接することになります。いわば、自分が気に入るような情報ばかりが各自に選択的に届くことになります。逆にいえば、自分が知りたくもなければ、接したいとも思わないような情報や意見は「ノイズ」に過ぎません。とはいえ、自分が賛成しない他者の意見にも耳を傾ける寛容の原理は、現代の自由民主主義の中核となる理念の一つです。閉鎖的な情報空間において、特定の考え方ばかりが増幅される「エコー・チェンバー」の時代において、民主主義は生き残れるのでしょうか。踏みとどまって考えるべき時期が到来しています。

宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書 2020年)

(3)民主主義が重んずる自由の中でも、とりわけ重要な意味を持つものは、言論の自由である。事実に基づかない判断ほど危険なものはないということは、日本人が最近の不幸な戦争中いやというほど経験したところである。ゆえに、新聞は事実を書き、ラジオは事実を伝える責任がある。国民は、これらの事実に基づいて、各自に良心的な判断を下し、その意見を自由に交換する。それによって、批判的にものごとを見る目が養われ、政治上の識見を高める訓練が与えられる。正確な事実についてかっぱつに議論をたたかわせ、多数決によって意見の帰一点を求め、経験を生かして判断のまちがいを正してゆく。

『民主主義』文部省 1948‐1949年(角川ソフィア文庫 2018年)

En vous référant explicitement aux trois textes ci-dessus, rédigez un article de revue afin d’ouvrir un débat public autour de la question de savoir comment on peut ou non défendre la « légitimité » de la peine de mort dans un pays démocratique comme le Japon, en invitant le lectorat à exprimer librement son avis à ce sujet.

 上掲の三つのテキストに明示的に言及しつつ、日本のような民主国家における死刑の「合法性」についての公開討論を雑誌読者に呼びかける記事を書け、という問題である。つまり、学生たち自身に当該の問題についての私見を述べさせることが目的ではない。この問題について公開討論を呼びかけ、読者に自由に意見を述べる場を提供することを提案する記事を書け、と求めているのである。
 このような記事を書くことは、メディアの役割についての反省をおのずと要請する。それに、ある雑誌の読者を対象としているということにも自覚的でなくてはならない。答案は仏語で書くのだが、想定される読者はフランス人であっても日本人であってもよい、と予め伝えておいた。ただ、その選択に応じて記事の内容は大きく異ならなくてはならない、ということは敢えて明示的には注意しなかった。
 大半の答案は学生たちが真剣にこの問題に取り組んでくれたことを示していたが、予想通り、誰を読者として想定しているのか、はっきりしない答案が多かった。「私たち nous」「あなたたち vous」と彼らが書くとき、誰のことなのか、曖昧なのだ。
 彼らにとって、死刑廃止かあるいは存置かという問題は、もはや「解決済み」の過去の問題、いや歴史の一部にすでになっていると言ってもよい。それに対して、日本国民はこの問題に今も向き合っている、あるいは、向き合っていなければならないはずである。だから、想定される読者がフランス人か日本人かで記事の内容は大きく異ならざるを得ないのである。
 この点について自覚的だった答案は数枚に過ぎなかった。ただ、公正な議論のためにメディアが果たすべき役割、民主主義そのものが抱える内的葛藤、市民の政治への参加と責任、政治と正義の対立、倫理と法律の不整合、人権の擁護という原則の脆弱性など、それぞれに重要な問題に気づくきっかけにはなったようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カラダ日記 ― 「毎日平均10キロ走っているのに体脂肪率が上昇するのはなぜか」という問いに対する私の解答

2022-05-06 23:59:59 | 雑感

 不定期で記録している「カラダ日記」の前回は2月21日だった。その前日に体組成計の数値がすべて最高記録となったことを報告する内容だった。その記録はいまだに破られていない。
 今回は、そのような一回の数値的変化ではなく、その日以降今日までの二ヵ月半ほどに徐々に起こりつつあると思われる変化についての報告である。報告と言っても、素人考えによる解釈であり、科学的根拠に基づいたものではなく、ネット上で読みかじっただけの生半可以下の粗雑な知識(ともいえない断片的情報)を頼りとした推測の域をでない。
 で、どういう変化かというと、体重が減少傾向にあり、5月1日計測時にはBMIが19,3まで下がった。これは個人史上最低記録である。内臓脂肪は4,5で、最低タイ記録。ところが、体脂肪率が上昇傾向にあり、骨格筋率が減少傾向にある。同日の計測で、前者が14,5、後者が32,9。けっして悪い数値ではないが、この変化はどのように説明できるだろうか。
 問題は、毎日10キロ平均のジョギングをしているのに、なぜ体脂肪率が上昇し、骨格筋率が減少するのか、ということである。
 この問題に対する私の「答案」は以下の通り。
 まず、結論から言うと、体脂肪の絶対量が上昇したのではなく、筋肉量が減少したことが上掲のような数値の変化となって現れている、ということである。
 では、なぜ運動を続けているのに、筋肉量が減ってしまうのか。それはいわゆる赤筋と白筋との比率に変化が起こっているからである。赤筋は持久力を必要とする運動に使用され、白筋は瞬発力を必要とする運動に使用される。言うまでもなく、ジョギングでは前者が主に使われる。おそらく、私の体にとって、現在の運動量は、赤筋だけで調達できるエネルギー源ではまかない切れない量に達しているのだ。そこで、普段あまり使われることのない白筋からグリコーゲンを赤筋が「借用」し続けている。借りたものは返すべきであるが、毎日消費してしまうために、「返済」は滞り、さらに「借金」が嵩む。結果、貸したものが返ってこない白筋がやせ細ってしまったのである。このことは鏡に写した自分の全身の変化からも裏づけられる。白筋が多く集まっている大腿部が目立って細くなっているのに対して、赤筋が集まっている脹脛はそれほど細くはなっていない。もう一つの長期的な要因としては、加齢である。一般に加齢とともに白筋は減少する。
 では、この傾向に歯止めをかけるにはどうすればよいか。答えは、毎日の運動パターンの中に、白筋を鍛える運動を取り入れ、赤筋からの「返済」を当てにせずに白筋に「自己再建」させることである。具体的には、いわゆる負荷の高い筋トレが考えられる。
 しかし、そのためにさらに運動時間を増やしたくないとすればどうするか。これまで少し余裕のある一定のペースで続けてきたジョギングの中に、何本か無酸素運動であるダッシュを取り入れ、運動パターンにいわばメリハリをつければよい。
 という結論に至り、三日前から、ジョギングの中に200~400メートルのダッシュを何本か導入している。
 有意な変化が現れたら、次回の「カラダ日記」で報告する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新たに購入したランニングシューズ ― アディダス ボストン 10

2022-05-05 23:59:59 | 雑感

 昨年七月にジョギングをほぼ毎日するようになってから、ランニングシューズをこれまでに八足順次購入し、昨日まではそのうちの六足でローテーションを組んで走り続けてきた。それぞれ月に五回使用しているわけである。徐々に購入していったから、最初からこのローテーションが組めていたわけではない。このローテーションが確立したのは今年の三月半ばである。それ以前は、後に購入したシューズほど使用頻度を高め、それぞれのシューズの使用回数・総走行距離がほぼ均一になるように調整を図った。その均一化に到達したのが三月半ばだったということである。このペースで使用し続けると、今年の七月中に六足それぞれの総走行距離がおよそ七〇〇キロに達する。ジョギングを始めてちょうど一年で買い替えが始まることになる。
 ただ、すべて同じモデルあるいはその最新ヴァージョンを購入するわけではない。「脱落」するものもある。再購入がほぼ確定しているのは、今のところ、ナイキのペガサス38(あるいは39)、アシックスのニンバス(現在使用しているのは23だが、すでに24が発売されているので、こちらにする)の二足。履き始めたときは、これぞ自分に最良の一足と思えたミズノのウェーブライダー25は、所有している他社製品と比べて、アウトソールの摩耗が早いので再購入を躊躇っている。
 もう少し選択肢を増やしたいと思い、今日新たに購入したのがアディダスのボストン 10。早速走ってみた。接地感は固めだが、推進力を得やすく、一時間で一〇キロ、ほぼ一定のペースで難なく走れ、ローテーション入りは確実だが、毎日履きたいかというと、そこまでのフィット感はない。今後七月までにあと二足ほど別のモデルを購入し、その上でローテーション入りの「メンバー」を確定することにする。


今月の幻の文庫新刊紹介(三)― エレーヌ・ソレイユ著『最後の日まで、あなたと』(パンオショコラ・インターナショナル出版 「コレガエレガンス文庫」

2022-05-04 23:59:59 | 雑感

 タイトルだけ見ると、闘病日記あるいは看病物語の類かと思ってしまうが(それにそれはまったくのまちがいではないのだが)、この本は、地球環境の危機的状況を少しでも改善しようと生涯をかけて闘い続けたフランス人地球物理学者によって書かれた、いわば「戦中日記」である。
 著者エレーヌ・ソレイユは、フランスのプロヴァンス地方に1976年に生まれ、1998年に理工科大学校を主席で卒業後、直ちに国防総省に入省、勤務の傍ら、地球物理学の分野で博士号を2004年に取得する。2010年に同省を退省。その後は、在野の研究者として世界各地を回って地球環境の危機を訴え続け、またその危機に対処するための具体的手段を提案してきた。
 彼女は、自らのことを、瀕死の状態にあるガイア(地球)の病床に寄り添い、できるだけの処置を続ける「看護師」だと言っていた。本書のタイトルは、そんな彼女の覚悟を表しているのである。「あなた」とは、言うまでもなく、ガイア(地球)のことである。
 数年前、一度インタビューしたことがあるが、実にシンプルで質素な身なりでありながら、宇宙から見たガイアのごとく澄んだ青き瞳をもった、輝くばかりに美しい女性であった。
 まさに一日も休むことなく世界中を駆け回り、ときに絶望感に襲われながらも、いたるところで苦しみの呻きをあげるガイアの看病に奮戦していた彼女は、三年前、流星のごとくに急逝された。膵臓がんだった。享年四十三歳。
 まことに痛ましい最期であったが、ガイアの最期を看取ることなしに逝去したことは、彼女にとって、あるいは幸いなことだったと言えるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今月の幻の文庫新刊紹介(二)― ジャック・アマノ著『反エコロジー宣言』(倒産書房「ウレテタマルカ文庫」)

2022-05-03 20:03:12 | 雑感

 著者ジャック・アマノ氏は、1972年ロサンゼルス生まれ日系アメリカ人である。父親はアメリカ人で、母親が日米のハーフ。日本語はまったくできない。知りたくもないと本人から聞いたことがある。マサチューセッツ笑科大学(MIC=Massachusetts Institute of Comics)出身である。
 一言で言えば、嫌な奴である。一緒にいたくない奴である。誰にでもところかまわず噛みつく。公共の場であっても大声で相手を罵倒して憚らない。マジ、うざい。
 ところが、会ってじっくり話してみると、いかにも人に嫌われそうな彼の言動や行動にはそれなりの理由があり、彼が単なるミザントロープではないことがわかる。犬狼のような彼の態度は彼の思想表明なのである。
 十人が足並みを揃えて右に一歩踏み出すのを見ると、彼は左に十歩駆け出さなくはならないと本能的に感じるという。そうしないと、やっとのことで危うい均衡を保っている世界が転倒してしまうという妄想を彼は追い払うことができない。
 先日、私が彼にインタビューしたとき、彼自身確かに「妄想」という言葉を使っていたが、それもまた彼一流の韜晦趣味で、実のところは、正気なのは自分だけだと自負している節がある。少なくとも、遠くはない世界の終末を彼が本気で心配していることだけは確かだ。
 『反エコロジー宣言』は、天邪鬼な彼にいかにも相応しい会心の一作である。その冒頭の一文はこうである。

「今、世界を徘徊している亡霊がいる。エコロジーという亡霊である。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今月の幻の文庫新刊紹介(一)― フユヒコ・ニイチエ著『善悪のビーガン』(辺境公論社「黄昏文庫」)

2022-05-02 22:25:39 | 雑感

 やっかいな書評を頼まれてしまった。近頃はやりの「完全菜食主義(ビーガン)」を完膚なきまでに叩きのめした「鉄槌」の一書を紹介しなくてはならない羽目に陥ったのである。
 嫌なら断ればいいじゃん。ご指摘、ごもっとも、痛み入ります。でもね、ギャラがメチャよかったんですわ。で、「よろこんで書かせていただきま~す」と、まことに節操もなく、引き受けたという次第。
 著者の姓を正確に綴ると、「新智慧」(にいちえ)である。この極めて珍しい名字をもった日本人の父親とスペイン系ドイツ人女性サンチェス・オペレッタとの間に、1996年に第一子長男として冬彦君はフランクフルトに生まれた。
 彼の父親、新智慧護(にいちえ・まもる)氏は、ドイツのフライドポテト大学の人類学の教授、母親サンチェス・オペレッタは、スペインのグラグラ大学の比較文学の教授である。二人とも、それぞれの分野の権威として知らぬものはないと言われている(が、私は全然知らなかった。不明を恥じる次第である)。
 フユヒコ君、生後一週間で、突然、ドイツ語を文法的に完璧に話し始め、生後一年、ようやく歩き始めた頃には、母語であるドイツ語以外に、すべてのヨーロッパ言語を完璧に理解し、話すようになっていたという。今では日本語も完璧にマスターしているという噂である。
 その異常なる言語能力に開いた口が塞がず、恐怖さえ感じた両親は、精神科医、脳科学者、心理学者など、つてを頼りにあらゆる専門家に説明を求めたらしいが、誰一人として、二人に満足のいく説明をすることができなかったという。
 ドイツの信頼の置けるメディアによると(っていう言い方自体がなんとも胡散臭いのだが)、二十世紀ドイツが生んだ最後の天才だとのことである。
 現在は、ヨーロッパの某国の国立大学の非常勤講師をしているらしい。とにかくメディアには一切登場しない人なので詳しいことはわからない。
 『善悪のビーガン』は、確かに痛快な一書ではある。自分を善だと信じている完全菜食主義者たちは、まさにその信ゆえに論理的に間違っており、にもかかわらず自分の立場に固執することそのことによって悪の権化にほかならないと切って捨てるその論述の展開は、あたかも剣豪の見事な太刀さばきの如く鮮やかで、一気に読ませる。
 自分自身に関しては、完全雑食主義を高らかに宣言し、来る者は拒まず、とにかく何でも残さずに食べることのみを食の行動原理としていると本書のなかで誤解の余地のない仕方で明言している。