内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

願書順位づけ作業完了

2022-05-21 23:59:59 | 雑感

 

 昨日が来年度入学願書の学内書類審査の締め切り日だった。二人の同僚の意見を考慮して、六八六名の志願者の最終的な順位づけの微調整を行い、確定した順位づけを全国共通のサイト上に登録して、すべての作業が終了したのが昨日午後五時過ぎであった。
 今年で五年目になるが、順位づけ作業そのものには次第に慣れてきているとはいえ、最終的に順位を確定して登録する前には、不備がないか何度も確認作業を行う。この作業には細心の注意を払う必要があるので、この作業期間中、他の仕事はほとんど手につかない。それから昨夕ようやく解放されたというわけである。
 今朝は気分も軽く、十五キロ走った。昼過ぎ、ビールを飲みながら、今FODで配信中の二〇〇三年版『白い巨塔』(唐沢寿明主演)第十九回を観る。ここ二週間ほど、日に一話、第一回から順に観ていた。過去に三回、全部観ている。名作だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


精神の運動と言葉の運動のコレスポンダンス ― ベルクソン「心と体」より

2022-05-20 16:51:18 | 読游摘録

Une oreille étrangère, si habituée qu’elle puisse être à la musique, ne fera pas de différence entre la prose française que nous trouvons musicale et celle qui ne l’est pas, entre ce qui est parfaitement écrit en français et ce qui ne l’est qu’approximativement : preuve évidente qu’il s’agit de tout autre chose que d’une harmonie matérielle des sons. En réalité, l’art de l’écrivain consiste surtout à nous faire oublier qu’il emploie des mots. L’harmonie qu’il cherche est une certaine correspondance entre les allées et venues de son esprit et celles de son discours, correspondance si parfaite que, portées par la phrase, les ondulations de sa pensée se communiquent à la nôtre et qu’alors chacun des mots, pris individuellement, ne compte plus : il n’y a plus rien que le sens mouvant qui traverse les mots, plus rien que deux esprits qui semblent vibrer directement, sans intermédiaire, à l’unisson l’un de l’autre. Le rythme de la parole n’a donc d’autre objet que de reproduire le rythme de la pensée ; et que peut être le rythme de la pensée sinon celui des mouvements naissants, à peine conscients, qui l’accompagnent ?

« L’âme et le corps ». In L’énergie spirituelle, PUF, 2009, p. 46.

どんなに音楽に親しんだ外国人の耳も、私たちが音楽的だと感じるフランス語の散文とそうではないもの、完璧なフランス語で書かれたものとそれに近いだけのものとを聞き分けることはできないでしょう。これこそ、問題が音の物質的な調和とはまったく別のものであることの証拠です。じっさい、作家の文章法はとりわけ言葉を使っていることを忘れさせるところにあります。作家の求める調和は、自分の精神と運動と自分の用いる言葉の運動との間のある種のコレスポンダンスであり、それが完璧に照応するとき、文章によって運ばれる作家の思考の波は私たちの思考の波に伝えられます。そのとき、個々の言葉はもう問題になりません。言葉を横切って動く意味のほかには何もなくなり、二つが一つになって媒介なく直接に振動する二つの精神があるだけです。したがって言葉のリズムは、思考のリズムを再生することだけが目的なのです。そして思考のリズムとは、思考に伴ってほとんど無意識に発生しかかる運動のリズムでなくて何でしょう。

「心と体」、原章二訳『精神のエネルギー』(平凡社ライブラリー 2012年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拙論が日本の某私立大学の今年の国語入試問題に使われていた

2022-05-19 00:00:00 | 雑感

 昨日の朝、大学のアドレスに届いているメールの処理をしていて、スパムが一通あったので、ただそれを削除するためにスパムのページを開いたら、件名が「著作物利用申請書」となっている。先日のクレジットカード不正使用の一件があるから、ちょっと不安ではあったが、一応開いて中身を確認してみた。
 著作物利用申請の代行を行っているという日本著作権教育研究会(一般社団法人)からのメールである。同研究会のサイトを見てみると、別に怪しい組織ではなさそうだ。用件は、関西の某私立大学の今年の国語入試問題にその一部が使用された『現代思想』2021年1月号に掲載された拙論「他性の沈黙の声を聴く  植物哲学序説」の本文を、同大学が受験希望者に無償で配布する過去問集へ掲載することの諾否を回答してほしいということだった。
 依頼書には入試に使用された本文及び問題文も添付されていて、拙論本文十一頁中のはじめの方の約四頁が使われている。設問形式は、本文中の表現を指定字数内でそのまま抜き出させる問題以外は、すべて選択問題である。漢字や漢語の意味に関する問題の正解ははっきりしている。文脈抜きで解答できる問題もある。ところが、内容に関する五択問題に関しては、筆者本人である私も一瞬迷ってしまうような選択肢が並んでいる。
 それら不正解の選択肢を読んでつくづく感心するのは、一見正しそうだけどどこか間違っている文を考え出す問題作成者たちの想像力の豊かさである。私はまったく経験がないからわからないが、何かコツやらテクニックがあるのだろうか。受験生が引っ掛かりやすいように微妙に内容が本文と違っている文をよくもまあこれだけ捻り出せるものだとほとんど感嘆するほどである。その作成時の苦労が忍ばれさえする。というわけで、拙論を入試問題に使ってくださったことへの感謝の徴として掲載を承諾した。
 と同時に、それらの紛らわしい選択肢の中から限られた時間で一つ選ばなければならなかった受験生たちのことはちょっと気の毒に思った。焦るとなおのこと迷ってしまっただろう。拙論が使われた問題のせいで国語の点数が悪くなり、結果不合格になってしまった受験生諸君にはこの場でお詫び申し上げます。
 でも、これだけは言わせていただきたい。私は君たち受験生を苦しめるためにあの論考を書いたのではないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「自由の自は「みずから」であって「おのずから」ではない」― 九鬼周造「人生観」より

2022-05-18 04:20:59 | 読游摘録

自由の自は「みずから」であって「おのずから」ではない。性格からおのずから流れ出る行為は既に自由の領域を脱して法則の必然性の領域へ移ってしまっているとも云える。もっとも、個々の自由な行為が集積して習慣によって法則化したと考えればそれでもいい。だが一方に性格そのものの起始を歴史的社会的所与と見做し、他方に性格から自然に出る行為という意味以外に自由を認めないならば、それは歴史的決定論へ帰ってしまう。真の自由は個々の行為の選択そのものに存しなくてはならない。自由なる行為は性格を造ると共に毀ち得るものでなければならない。自由は瞬間瞬間に行為を無から創造するのでなければ本当の自由ではない。従って自己とは実体のような単なる連続ではなくて、非連続の連続という構造を有ったものである。

九鬼周造「人生観」、『人間と実存』(昭和十四年)所収。初出『理想』昭和九年十月。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ぼくはほんとうに幸せだ」― カフカ『判決』より

2022-05-17 03:22:21 | 読游摘録

ぼくはほんとうに幸せだ。そして、君との関係もちょっと変化した。といっても、君にとってごくありきたりの友人ではなく、幸せな友人になったということにすぎないのだが。いや、それだけじゃない。婚約者が君によろしくと言っている。

カフカ『判決』 丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫 2007年


「造化にしたがひ、造化にかへれ」― 芭蕉を想う

2022-05-16 06:11:19 | 雑感

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

松尾芭蕉『笈の小文』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日で丸一年、歩き、そして走り続けた

2022-05-14 15:49:10 | 雑感

 昨年の五月十五日にウォーキングを開始した。その一月半後にはジョギングに切り替えた。以来、走り続けて一年が経った。今日は十五キロ走った。今月、今日までの十四日間で一八五キロ走った。
 この一年で、歩きも走りもせず、家にじっとしていたのは六日だけ。先日の記事でも言及したが、今年に入って休んだのは二月六日の一日だけ。ウォーキング・ジョギングの総走行距離はこの一年で三八〇〇キロを超える。
 ウォーキングを始めて三週間ほどで体に変化が見られるようになった。それから一年経って、全身が細く引き締まっただけでなく、そして体組成計の数値が著しく向上しただけでなく、心肺機能その他すべての身体能力が向上しているという実感がある。
 それだけではない。この五月に入って、体組成計の数値の若干の相対的低下にもかかわらず、それ以前に比べて脚部の疲労度が軽減している。翌日に脚にだるさが残ることがほとんどない。四月までの数ヶ月、走り出しに感じられた左脚アキレス腱の痛みもほぼなくなった。「走る体」になってきているのではないかと思う。
 これからの季節、森の中を走るのは殊の外気持ちがいい。明日からも、走れるかぎり、休む理由がないかぎり、毎日走り続けるだろう。


志願者数が多いだけの見かけばかりの「人気学科」

2022-05-13 23:59:59 | 雑感

 四年前の2018年に導入された大学入学新システムは今年で五回目を迎える。日本の大学とは大きく異なるシステムなので、簡単に説明するのは難しいのだが、敢えて一言で言えば、フランス全国立大学全学部において、その入学希望者に書類審査に基づいた順位づけを行い、上から順に定員まで入学を許可するという制度である。
 この新システムが法案として提出された2018年、大学教育の機会均等という大原則に反する制度だと全国の大学で反対運動が巻き起こり、ストラスブール大学でも数週間に渡って大学が封鎖され、キャンパスの周辺を警察車両が取り巻くというものものしい空気が四月から五月にかけてキャンパスを包んだが、結局のところ、導入され、今日に至っている。
 この書類審査に当たるのはそれぞれの学科の教員であり、導入時学科長であった私は当然その責任者となった。以来、その責任を担い続けている。学科長を退任した後も、それまで学科長が担っていた仕事のいくつかはそのまま私が引き受け続けることを私の方から提案したのだが、この書類審査もその一つである。
 年々志願者は増え続け、今年は定員125名に対して686名の志願者があった。順位づけは、基本的には全国共通のアルゴリズムに従って自動的に算出されるのだが、順位づけのためのパラメーターは学科ごとに決める自由があり、それにはかなり選択肢があり、それをどうするかで、順位も変わってくる。
 毎年パラメーターの調整を行うが、それでも妥当とは言えない順位づけが必ず発生してしまう。その要因はいくつかあるが、願書の中に必ず一般的なタイプに入らないものがあることがやはり一番大きい。そういったケースを見つけ、順位の調整を図るのだが、それはすべて「手作業」で行う。つまり、書類審査に当たる人間の判断による。審査の公平性の観点からも、さすがにこれを私一人でするわけにはいかないので、仮の総合順位の算出と私自身が必要と判断した微調整を加えた順位表にコメントを付して、現学科長ともう一人の学科の同僚に確認及び修正案の提出を依頼する。それを今日依頼した。来週金曜日が順位の最終確定の締め切りなので、その前々日である水曜日までに二人にその作業を行ってもらう。
 しかし、このかなりの時間と労力を必要とする作業は、実のところ虚しいのである。というのも、数字だけ見ると約5.5倍の競争率ということになるが、実際には、今年もまた最下位の志願者もおそらく入学してくるだろう。なぜそういうことになるかというと、志願者たちは最大十学部・学科に願書を提出する権利があり、当然のことながら、志望順位の高い学部から選んでいくことになる。ストラスブール大学言語学部日本学科は、多くの志願者たちにとって、第一志望ではないのである。第何志望かは知ることができないが、過去の結果から見て、下位にランクされている場合が多いと思われる。
 もっと具体的に、ぶっちゃけた言い方をすると、総合順位上位の学生たちはほとんど来ない。最上位百人中、十人くらいである。第二グループの百人中からも、せいぜいその倍の二十人程度、以下、なだらかに入学者が上昇していくが、過去四年間、最下位の学生も「めでたく」入学しているのである。定員に空きがあるかぎり、順位づけされた志願者を必ず受け入れなくてはならず、たとえどんなひどい成績の学生でも受け入れざるを得ないのである。いったい何のための順位づけなのかと虚しくなるのも無理はないとご理解いただけるだろう。
 ただひとつだけ、このシステムが日本学科にとってどちらかと言えばポジティブに作用している点がある。それは、このシステムでは、志願者を合格と条件付き合格という二つのタイプにわけることができることである。前者は新システム以前と同様な通常の入学になるが、後者の場合、学部一年次を二年に分けて履修することを条件として受け入れる。つまり、学力不十分とこちらが判断したにはこの条件付き合格しか認めないのである。そうすると、当然それを望まない志願者もいるわけで、学力不足の入学者をいくらかでも減らすことができると私たち日本学科では考えた。
 確かにその効果はいくらかはあるとは言えるのだが、条件付き合格の志願者中上位の者ほど、他大学に行ってしまうケースが多い。他大学で普通に合格すれば、そちらを選ぶ者が多いのは当然のことであろう。結果、著しく学力の低い学生たちが毎年入学してくる。そして、その多くは途中で脱落していく。
 いくら入学システムをいじったところで、入学時の選抜を行わないかぎり、この問題は解消しない。「選抜」というフランス大学教育における禁句を使わずに、現行制度で事実上選抜できているのは成績上位者だけで定員が満たされる人気学部・学科だけである。日本学科はそうではない。志願者数だけが多い見かけばかりの「人気学科」なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学部最後の小論文のテーマ ― 家族、仕事、生活

2022-05-12 23:59:59 | 講義の余白から

 今年度の授業は先週中に最後の授業を終えており、今週は試験監督だけだった。それも今日が最後だった。「日本の文明と文化」という日本語のみで行なう授業の試験だった。形式は、一つのテーマについて日本語で書く小論文である。
 学生たちにとってこの小論文が学部生として日本語で書く最後の文章になるから、大きなテーマを与えて、自由に書かせた。字数制限も一〇〇〇字から一六〇〇字と幅をもたせた。そのテーマとは、家族、仕事、生活の三者の関係である。
 このテーマに関して自分の考えを自由に述べてよいとしたが、次の二つの条件は守るようにもとめた。授業で観たテレビドラマ『透明なゆりかご』と『重版出来!』のエピソードに言及すること。授業中にこのテーマに関連して私が作成したメモを参照すること。
 おそらく書きたいことは山ほどあるだろうから、この二つの条件を満たしつつ制限字数内でどのように話題を絞り込んで書くことができているかが評価のキーポイントになる。
 いつもはそつなく仕上げて試験時間終了前にさっさと退席していく学生たちも今日は時間をかけて書いていた。彼らが上掲のテーマについてどんなことを考えているのか、興味津々である。これから読むのが楽しみである。この小論文の総評も後日このブロクで話題にしたい。