内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「涼し」は夏の季語

2022-08-11 17:22:22 | 雑感

 「涼し」は夏の季語。夏の暑さの中にあってこそ感じられる涼気をいう(『俳句歳時記 夏 第五版』角川書店編 角川ソフィア文庫 二〇一八年)。「涼し」は、実際にもっとも涼しい季節(秋)ではなく、ひとがもっとも涼しさを欲する季節(夏)を指している(山本健吉『ことばの歳時記』角川ソフィア文庫 二〇一六年 原本 文春文庫 一九八三年)。「それはもっとも暑い季節であるがゆえに、もっとも欲するものであり、もしそれを得たときは、ことさらにその快味が感じられるものなのである。ほんのちょっとした扇の風や、そよ風や、樹陰であっても、それは涼しいのであって、涼しさに対するひとの欲求の強さが、それを敏感に捉えるのである」(同書)。

此あたり目に見ゆるものは皆涼し          芭蕉・笈日記(真蹟懐紙写・曠野後集)

涼しさを我宿にしてねまる也            芭蕉・おくのほそ道(初蟬・菊の香)

 「ねまる」は、くつろいですわる意の東北方言。

  佐夜中山にて

命なりわづかの笠の下涼み             芭蕉・江戸広小路

 西行の「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」(新古今集)を踏まえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鐘の音のミクロコスモス

2022-08-10 21:59:17 | 雑感

 今朝、一時間余り走ってそろそろジョギングを終えようかと世田谷観音の脇の坂道を子の神公園の方へとピッチを上げて下っているとき、六時を告げる梵鐘がちょうど鳴り始めた。不意打ちを掛けられたかっこうで、その音の大きさに驚いた。二つ三つと六つまで時を告げる鐘の音を音源から遠ざかりつつ背後に聞きならが坂を下りきり、公園の角を右折して、蛇崩川緑道駒繋公園の角まで進み、そこで右折して坂を上りきったところでまた右折、出発点へと帰り着く。
 寺の鐘の音が生活の時を刻むことなど、現代の都会では縁遠いことになってしまったが、今朝の不意打ちによって、時を告げるという単なる機能性を超えた時空への想いへと誘われた。
 阿部謹也の『蘇える中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、一九八七年、二九〇頁)にはこう述べられている。

中世の人びとにとって音は大きく分けて大宇宙(マクロコスモス)の音と小宇宙(ミクロコスモス)の音に分けることができました。例えば森の梢を渡る風の音や狼の叫び声などは、大宇宙の音として恐れられていました。[…]自然現象に対して現実に無力であった中・近世の人びとは、鐘の力で小宇宙の平和を守ろうとしていたのです。その限りで鐘の音は小宇宙の平和のシンボルでしたから、鐘の音のなかに私たちはヨーロッパの真の姿を知ることができるのです。

 この論点を前提として、それを日本史に応用して書かれたのが笹本正治の『中世の音・近世の音 鐘の音の結ぶ世界』(講談社学術文庫、 二〇〇八年、原本、名著出版、一九九〇年)である。
 上掲書と合わせて、アラン・コルバンの『音の風景』(藤原書店、一九九七年、原本 Les cloches de la terre, Albin Michel, 1994, au format de poche, Flammarion, 2013)も読むことで、ヨーロッパと日本の鐘の音の感性史にひととき遊ぶのも、この酷暑の夏を室内で涼やかに過ごすよすがとなりましょう。

涼しさや鐘をはなるゝかねの声    蕪村

 

 

 

 

 

 

 

 


炎熱の東京のだらりとした過ごし方

2022-08-09 22:17:58 | 雑感

 炎熱の東京の夏を味わうのは二〇一九年以来で、それなりの覚悟をして帰って来たが、やはり暑いものは暑い。先週三日ほど凌ぎやすい日が続いて一息つけたのも束の間、日曜日からまた暑さが戻ってきて、今週はずっと日中の最高気温が三十六度を超えるという。夜間も気温が二十五度以上の熱帯夜も続いている。早朝のジョギングはだいたい四時五〇分前後に出発するのだが、玄関の扉を開けるとすでにむっとした空気が身にまといつき、先週後半の爽やかさからは程遠い。一時間余り走って六時前後に帰ってくると、ジョギングウエアはバケツで水を被ったかのごとくにびっしょりだ。すぐにシャワーを浴びて、冷房の効いた部屋で涼むのは心地よい。でも、日中に外出する気にはなかなかなれない。せっかく帰国しているのにもったいないとは思うものの、この暑さの中、しかも交通機関や建物内ではマスク着用がいまだに事実上強制されているに等しいのに、わざわざ出かけるのは億劫だ。読みたい本はいくらでもあるから家にいて退屈することはないが、長時間一書を集中して読むだけの気力はなく、読み散らしてばかりいる。午睡もよくする。今日がちょうど滞在中日だ。明日からは論文に取り掛かろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


キリスト教の脱構築

2022-08-08 15:39:25 | 哲学

 今日、二〇二四年九月に出版予定の或る記念論文集への寄稿をその論文集の編集長から直接依頼され、その場でお引き受けした。既に人を介して五月に打診はあったのだが、その時点ではどのようなテーマで書けばよいのか、まだはっきりしていなかった。今日の話では、最終的には私が書きたいことを書いてくれればよいということだったが、論文集の構成プランについての説明を聞いて、できるだけ編集長の希望に沿うかたちで依頼に応えたいと思った。そう思ったのは、提示された主題に取り組むことが私にとって学恩に報いることにもなり、またキリスト教と再びどう向き合うのかという私にとって避けがたい問いに答える機会にもなるからである。その主題とは、一言で言えば、キリスト教の脱構築である。しかし、このままでは一論文の主題としてはもちろん大きすぎる。仮題の締切が九月末であるから、それまでじっくりと論点を絞っていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日は走らなかった

2022-08-07 23:59:59 | 雑感

 昨日の深酒が祟って、今朝はいつものように早起きできず、五時半過ぎに目は覚めたものの、その時点では走る元気はなかった。幸い二日酔いではなく、頭が痛かったり、吐き気がしたりということはまったくなかった。日中さほど気温が上がったわけではなく、三〇度は超えなかったから、走ろうと思えば走れなくもなかったが、一日くらい休んでもいいかと易きに流れた。
 高瀬正仁の『評伝 岡潔 星の章』(ちくま学芸文庫 2021年 原本 海鳴社 2003年)『評伝 岡潔 花の章』(ちくま学芸文庫 2022年 原本 2004年)『岡潔 数学の詩人』(岩波新書 2008年)を並行して読み進める。二冊の評伝は、八年のフィールドワークに基づいた興味尽きないエピソードが豊富に盛り込まれた浩瀚な著作だが、もと各所に発表した原稿が基になっており、同じエピソードの繰り返しが多く、叙述が必ずしも時系列に沿っておらず相前後し、他方、日時の細部へ執拗なまでのこだわりや評伝には不必要と思われる説明的叙述にはいささかうんざりさせられる。岩波新書の一冊は、それらの細部を削ぎ落とし、すっきりとまとめられているから、こちらを先に読んで、さらに詳しく知りたいところだけ評伝を参照するようにすれば、無用な混乱を避けられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


とても楽しい一日

2022-08-06 23:59:59 | 雑感

 昨日で集中講義が終わり、今日から少し本当の夏休み気分に浸れる。少しというのは、九月初旬に学会発表、九月半ばと月末がそれぞれ締切の論文があるからである。発表の準備はすでにほぼ終わっているのでさほど心配ではないのだが、二つの論文の方はやや気が重い。どちらも過去のシンポジウムでの発表が基になるとはいえ、枚数制限が緩やかなので(それ自体はありがたいことなのだが)、発表原稿をちょっと手直しするだけでは済まされず、拡充する必要がある。それにまったく異なった発表内容なのである。半ばが締切の方は武士道の精神史についてであり、月末締切の方は自然と技術の関係についてである。参照される文献も当然まったく違う。どちらも時間がある八月中に目鼻を付けておかなければならない。毎年年度始まりの九月は忙しくて論文執筆のために思うように時間が取れないことがわかっているからである。こうしてブログに書いているのも、自分で自分に命令を発して、徒に時を過ごしてしまわないように戒めているようなものである。それにしても、二、三日は気を緩めてもいいではありませんか。
 というわけで(というわけでもないのだが)、今日、滞在中の妹夫婦のところに昼一家族四人の来客があり、私も昼食に相伴させてもらい、したたかに飲んだ。どれくらい飲んだか、よく覚えていないほど飲んだ。酒は強いほうだが、こんなに飲んだのは十数年振りのことである。来訪した家族の六歳と四歳の兄弟ともよく遊んだ。私はもともと小さな子どもたちが大好きで、彼らと真剣に話したり、本気になって一緒に遊んで時を忘れるのを無上の喜びとするものである。
 飲み過ぎは褒められたことではありませんが、とても楽しい一日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


集中講義を終えて

2022-08-05 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が集中講義の最終日だった。結局、すべてオンラインだった。
 まず、この七日間の講義で取り上げた様々な論点の総覧を行い、特に重要な論点や概念等について簡潔なまとめを私の方で行った。これが約四十五分。
 次に、学生たちに課した最終レポートでどのようなテーマを扱いたいか、彼女たちに発表してもらった。その発表それぞれに対して私が質問や助言をした。これに休憩を挟んで約一時間。
 残りの時間、この一週間の演習全体についての感想を学生たちに述べてもらった。普段彼女たちが馴染んでいる方式とはかなり異なっており、かなり盛りだくさんな内容だったこともあり、とまどった面もあったようであった。それでも、それぞれそれなりに得るものはあったようである。
 贔屓目ではないと断言する根拠はないが、三人とも問題を的確に捉えるセンスをもっていると思う。
 最終レポートの締切は一週間後の金曜日。その後、八月後半、彼女たちのレポートへのフィードバックを行う。それもオンラインで行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国家政策としての国語の母語化の効率的促進は言語主体の「未熟さ」を必要とする

2022-08-04 18:49:41 | 哲学

 時枝誠記の論文「朝鮮に於ける国語 実践及び研究の諸相」は『国民文学』三巻一号(一九四三年一月)に掲載された。その中で時枝はこう主張する。

半島人は須く朝鮮語を捨てゝ国語に帰一すべきであると思ふ。国語を母語とし、国語常用者としての言語生活を目標として進むべきであると思ふ。今日に於ける朝鮮語の現状は、古くは漢語漢字の圧倒的な勢力と、近代に於ける国語との接触のために、甚しき混乱と不統一に陥り、半島人の言語生活は必しも幸福であるとはいひ得ない。この現状を脱却する唯一の道は国語によつて半島の言語生活を統一するより外に道はない。

 この「甚だしき混乱と不統一」を生ぜしめたのは日本国家である。その責任を完全に不問に付し、半島人の不幸な言語生活にあたかも同情しているかのような文言は偽善的との誹りを免れがたい。時枝のいう国家的見地は、一つの立場に過ぎず、国語の強制と他言語の排除を無条件に正当化する論拠とはなり得ない。国家的見地に立たない一個の言語主体にとって、日本語を国語として受け入れることは一つの選択肢ではありえても、無条件的に受け入れるべき「唯一の道」ではない。
 いかなる言語主体も母語を選択することはできない。言語主体にとって母語はその可能性の条件であって、選択の対象ではあり得ない。国語としての日本語を母語とする言語主体の誕生は、国語としての日本語が母語である両親(あるいはそれに代わる存在)、もしくは日本語を国語として主体的に選択した両親(あるいはそれに代わる存在)を前提とする。とりわけ日本語のみによって自らの子らと話す〈母〉を必要とする。
 そこから朝鮮半島の女子教育における国語教育の重要性が導き出される。しかし、時枝理論における言語主体の定義に従うならば、国語は外的拘束として強制されてはならず、相互了解という目的のために言語主体自身によって主体的に選び取られなければならない。言い換えれば、主体が国語を選択するのを待たなければならない。この言語主体による主体的選択はその主体の成熟を必要とする。
 その成熟を待たずに行われる言語教育は多かれ少なかれ強制的でしかありえない。しかし、国語の母語化を推進するためには、できるだけ早期に国語教育を始めなくてはならない。その教育は「未熟な」言語主体に国語を一方的に「刷り込む」とき最も効率的である。
 つまり、国家政策としての国語の母語化の効率的な実行は、与えられたものを「素直に」受け入れる言語主体の「未熟さ」を必要とする。その限りにおいて、時枝の言語理論の基礎概念である言語主体の主体性は、国語の母語化教育において著しく制限されざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国語の日本語に対する優位の言語主体による承認は論理的に要請されうるか

2022-08-03 18:21:39 | 哲学

 時枝誠記の論文「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」は雑誌『日本語』一九四二年八月号に掲載された。この論文は、当時の朝鮮半島における日本の言語政策を支持、あるいはそれに理論的根拠を与えようとした時局迎合的な論説として戦後批判の俎上に載せられる。単に政策に同調したことが批判の理由ではなく、その独自の言語理論である言語過程説と矛盾する、あるいはその理論の根本概念である「言語主体」それ自身が矛盾を孕んでいる等の批判がなされる。これらの批判に関しては、しかし、慎重な吟味を要する。

国語と日本語とを主体的な価値意識に従つて差別することによつて、国家的立場に於いては日本語に対して国語の優位を認める[……]。国語は国家的見地よりする特殊な価値的言語であり、日本語はそれらの価値意識を離れて、朝鮮語その他凡ての言語と、同等に位する言語学的対象に過ぎないものである。従つて国語と日本語とは或る場合にはその内包を異にすることがあり得る。

 言語学的対象としての日本語は他の諸言語と同等であり、それらに対して価値的に優位に立つものではない。この意味での日本語は、現に話されている或いはかつて話されていたすべての方言を包含する。しかし、日本国家の「標準語」である日本語すなわち国語は、日本国家の統一の礎として、「日本国民」すべての紐帯(想像の共同体の基礎)であり、国家的見地から日本語に対して価値的に優位を占める。

 方言は標準語に劣らず或はそれ以上に研究的価値のある言語学的対象であり、又誰しも己の方言に母の言語としての懐かしさを感ずるであらう。しかし、国家的見地は之れらの方言を出来る限無くさうと努力する。こゝに標準語教育、国語教育の優位が現れて来るのである。国語は実に日本国家の、又日本国民の言語を意味するのである。国家的見地よりする方言に対する国語の価値は、とりもなほさず朝鮮語に対する国語の優位を意味するのである。

 方言に対する標準語の優位を根拠づける論理は、国家的見地から、他の諸言語に対しても適用される。それゆえ、国語としての標準日本語は、当時日本に併合されていた朝鮮の言語である朝鮮語に対して、日本語の方言に対してと同様、優位を占める。国家は唯一の標準言語を持たなくてはならないという前提に立つかぎり、ここまでの議論に論理的破綻は見られない。
 しかし、ここで二つの問いを時枝に対して立てなくてはならない。一つは、なぜ国家の標準語は一つでなければならないのか、という問いである。もう一つは、時枝の言語理論の核心により直接的に向けられた問いであるが、その理論の根底にある言語主体は標準語に対してどのような関係にあるのか、という問いである。
 第一の問いに対して、時枝の言語理論に基づいて答えるならば、言語表現がその目的とする言語主体同士の了解にとって最適な選択は、一国家一言語だからである、となるであろう。言語主体がこの条件を自ら受け入れるとき、了解可能性は一国家内において最大となる。したがって、言語表現の目的を一国家内において最大限に実現するには標準語としての国語の一択となる。
 第二の問いの答えは、第一の問いの答えの中にすでに内包されている。言語主体は、言語表現の目的たる了解のためにもっとも適した選択をすべきであり、そのためには、唯一の標準語たる国語を国民一人一人が言語主体として主体的に自らの意志で、つまりいかなる外的強制・拘束によることなく、選択することが論理的に要請される。
 ここまでは論理的破綻はない。つまり、時枝の国語政策論はその言語理論と整合的である。
 しかし、問題はまだある。それは、国語は母語たりうるか、という問題である。いかなる言語主体も母語を主体的に選択することはできない。それはいわば主体以前に与えられるものだからである。この問題については明日の記事で考察する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


主体概念を問い直す手がかりとなる近現代のテキスト(10)― 場面に融和しようとする言語主体、時枝誠記『国語学原論』「言語の社会性」より

2022-08-02 22:14:54 | 哲学

 今回の集中講義で主体概念再考のために取り上げる最後のテキストは、時枝誠記の『国語学原論』第一篇総論十「言語の社会性」である。時枝の言語過程説の要となる言語主体についての重要な規定が見られる章である。
 時枝は、言語の第一次的な目的は言語主体が内なるものを外に表現することにあると考える。と同時に、表現は聴手に理解されてはじめて了解が成り立つことも認める。言語主体は「表現意識を犠牲にしても了解の目的を達成しようとする」強い傾向がある。「了解を考慮するということは、場面について考慮し、主体が場面に融和しようとする態度である。」(『国語学原論(上)』岩波文庫、2007年、160頁)
 この場面に融和しようとする態度とは、その場面での社会的制約・拘束を受け入れることを必然的に含む。しかし、それは内から外へと表現を表出する主体の欲求が外的諸条件によって制約・拘束されることを意味しないと時枝は考える。この外的に見える制約・拘束は、実のところ、場面への融和・了解成立のために主体が自ら受け入れているのだと考えるのである。
 「言語に於いては、屢々素材の的確な表現と捨てても場面に合致した表現をとろうとする」(161頁)。例えば、大人が子どもに対して厳密な表現を捨てて子どもにとってわかりやすい表現をする場合である。言語主体は内から外への表現を第一次的な目的としつつ、「言語の不可欠は存在条件である場面」に対して顧慮する。それは外から強いられてそうするのではなく、了解という場面においてまさに言語表現を実現するために自らそうするのである。
 表現を限定する諸条件に従うことを自ら受け入れることによって言語表現を支えるもの、それが言語主体である。この言語主体において、主体(sujet)の語源である古代ギリシア語のヒュポケイメノン(ὑποκείμενον)の二重の意味 ―〈下に置かれたもの〉〈下から支えるもの〉― が統合されている。

 演習では、毎回授業後、学生たちに感想レポートを書いて送ってもらっている。これは今年で12回目になる集中講義で毎年行っていることだ。今年参加してくれている三名の女子学生は実にセンスがいい。二コマ(三時間)の授業はかなり盛りだくさんな内容なのだが、それぞれが異なった論点を私の話の中から引き出してくれている。その翌日の授業はそれら感想レポートに対して私がコメントを返すことから始まる。感想レポートが面白ければ面白いほど、私の応答も長くなる。メインテキストの読解はそれだけ遅くなる。しかし、哲学の演習(エクゼルシス)としてはそれだけ充実したものとなる。