時枝誠記の論文「朝鮮に於ける国語政策及び国語教育の将来」は雑誌『日本語』一九四二年八月号に掲載された。この論文は、当時の朝鮮半島における日本の言語政策を支持、あるいはそれに理論的根拠を与えようとした時局迎合的な論説として戦後批判の俎上に載せられる。単に政策に同調したことが批判の理由ではなく、その独自の言語理論である言語過程説と矛盾する、あるいはその理論の根本概念である「言語主体」それ自身が矛盾を孕んでいる等の批判がなされる。これらの批判に関しては、しかし、慎重な吟味を要する。
国語と日本語とを主体的な価値意識に従つて差別することによつて、国家的立場に於いては日本語に対して国語の優位を認める[……]。国語は国家的見地よりする特殊な価値的言語であり、日本語はそれらの価値意識を離れて、朝鮮語その他凡ての言語と、同等に位する言語学的対象に過ぎないものである。従つて国語と日本語とは或る場合にはその内包を異にすることがあり得る。
言語学的対象としての日本語は他の諸言語と同等であり、それらに対して価値的に優位に立つものではない。この意味での日本語は、現に話されている或いはかつて話されていたすべての方言を包含する。しかし、日本国家の「標準語」である日本語すなわち国語は、日本国家の統一の礎として、「日本国民」すべての紐帯(想像の共同体の基礎)であり、国家的見地から日本語に対して価値的に優位を占める。
方言は標準語に劣らず或はそれ以上に研究的価値のある言語学的対象であり、又誰しも己の方言に母の言語としての懐かしさを感ずるであらう。しかし、国家的見地は之れらの方言を出来る限無くさうと努力する。こゝに標準語教育、国語教育の優位が現れて来るのである。国語は実に日本国家の、又日本国民の言語を意味するのである。国家的見地よりする方言に対する国語の価値は、とりもなほさず朝鮮語に対する国語の優位を意味するのである。
方言に対する標準語の優位を根拠づける論理は、国家的見地から、他の諸言語に対しても適用される。それゆえ、国語としての標準日本語は、当時日本に併合されていた朝鮮の言語である朝鮮語に対して、日本語の方言に対してと同様、優位を占める。国家は唯一の標準言語を持たなくてはならないという前提に立つかぎり、ここまでの議論に論理的破綻は見られない。
しかし、ここで二つの問いを時枝に対して立てなくてはならない。一つは、なぜ国家の標準語は一つでなければならないのか、という問いである。もう一つは、時枝の言語理論の核心により直接的に向けられた問いであるが、その理論の根底にある言語主体は標準語に対してどのような関係にあるのか、という問いである。
第一の問いに対して、時枝の言語理論に基づいて答えるならば、言語表現がその目的とする言語主体同士の了解にとって最適な選択は、一国家一言語だからである、となるであろう。言語主体がこの条件を自ら受け入れるとき、了解可能性は一国家内において最大となる。したがって、言語表現の目的を一国家内において最大限に実現するには標準語としての国語の一択となる。
第二の問いの答えは、第一の問いの答えの中にすでに内包されている。言語主体は、言語表現の目的たる了解のためにもっとも適した選択をすべきであり、そのためには、唯一の標準語たる国語を国民一人一人が言語主体として主体的に自らの意志で、つまりいかなる外的強制・拘束によることなく、選択することが論理的に要請される。
ここまでは論理的破綻はない。つまり、時枝の国語政策論はその言語理論と整合的である。
しかし、問題はまだある。それは、国語は母語たりうるか、という問題である。いかなる言語主体も母語を主体的に選択することはできない。それはいわば主体以前に与えられるものだからである。この問題については明日の記事で考察する。