朝起きてしんどいが、植物たちに水やりをして、洗濯機を回し猛暑の空に干す。
ビールを呑み、イカ明太と収穫したきゅうりをおかずに、ご飯を頂く。
食べて横になったら、いつの間にか眠ってしまう。
数時間後目覚めると、熱中症のように脱水を起こし苦しむ。うなりながら横になるが、外が騒がしくなってゆく。
”ここで横になり続けるのは得策ではない”と、夕方、無理してまでも外に出る。
外にふらふらと出て、油汗をかきながら、ヒトのいない方向を目指そうとするが、どこを向いても逃げ場無し。
既に、ヒトの渦が島に流入し始めている。ついついやさぐれた感情になってしまう。
なぜヒトは、群れを成したがるのだろうか?
イオンなどで買った安物着流しを着た者らとすれ違う。地図やスマホで場所を探しながら歩く軍団が、どんどんと島にやってくる。
本当にこのヒトらは花火を見るのが目的なのか?いつからこんなに、こういった歳時に過剰な人数が来るようになったのか?
よくわからないが、4~5年前でもこんな騒ぎにはなっていない。スカイツリーとオリンピック影響だろうが、交通規制の範囲も広がっており、警察他大人数掛けての大事になっている。
皆で集団自殺でもしたいのか、わからない。
そもそもわざわざ遠くからよそに行って、わざわざ真下で見ようとするものなのか?(スカイツリーも花火も近付かなくたって見える、というのに。)
そんなことが脳をよぎる。居場所が無く焦る。
昔三ノ輪に住んでいた頃、毎年、家の物干しから見ていた隅田川の花火。
近所の親替わりのおばさん・おねえさんたちは、夕涼みがてら、近くの大通りに椅子を持っていき見ていたシーン。
人ゴミをかき分けて歩き、いったん京島に逃げ込む。
ボン、ボン、と空に爆撃音が響き出す。
70年かけて、アメリカのおもわく通り骨抜きになった国のさまをつい想起してしまう。
かつてこの地に爆撃がされたときも、こんな音が響いていたのだろう。
何だがわからない。
目の前の光景が不気味に見えてくる。
火薬が爆発し、ヘリコプターが飛び交い、町はそれでもなにごともなく静まり帰って空を見ている。
お店屋さんはかきいれどきだから黙ってはいるが、心地は良く無いだろうに。
そんな折、街角から露地に入ると、家の谷間から見える花火を見ようと、京島の人たちが座って見ている。
そこに神が舞い降りる。
年頃の生意気盛りの兄、と本当に可愛い小さい弟の会話。
弟「お兄ちゃん、こっち来て座んなよ。」
兄「興味ねえんだよな。別に見たくないよ。」
弟「わあ、きれいだなあ。」
兄「どれもおんなじじゃん。つまんねえよ。」
弟「そうかなあキラキラしててきれいだよ。どこでやってんの?」
兄「隅田川だよ。でも、近く行ったらダメだぞ。ヒトだらけだからな。」
まだ日が沈み切らない中の可愛い兄弟の会話に、歳の離れた自分と兄の過去を投影していた。
ここから、少しずつ島へと接近・戻っていく。その途中の道で、夜もどっぷり暮れた中、花火の現物を見たらぐうのねも出なくなってしまった。
「綺麗だ。」
足止めされたその場所から見えた花火に見とれて、最後まで。
はかなくもせつない一瞬のまたたき。
写真等の記録では伝わらない、目の前の肉眼に涙する。
車椅子のおかあさんと娘さんの姿だったり、いろんな人生模様が見えた今夜。
たまたま一緒に見ていた、日焼けたくましい親父さんとお話しをしたりする中、横で見ていた女の子2人の会話に、すごいなと思った。
『21世紀になっても、なあんも変わらんね。』
女の子が言いたかった意味は、よく分かった。
昔から今に至るまで、テレビで花火中継という意味不明なものが存在するが、江戸時代以来夏の風物詩となっている花火の意味。
来年見られる保証が無いから、ボクも君も花火を見ているのかもしれない。
今この同じ地で。
■Roxy Music 「True To Life」1982■
明日、この島は今日を忘れて、再び静かな地に戻っていく。