世の中は予定調和には行かない。ドラマじゃないのだから。
事件は、常に「現場で起こっている」。
日々の労働で四苦八苦し、出来の悪さにつまづくことは、未だにある。それがリアルな現実だ。
ブログなる場所で書いてあることがまるまるの日常ではない。「現場」に居るときの自分とも乖離がある。
それは、文字情報だからゆえでもあるし、自分が根っからの嘘つきだからである。
出来うるだけ乖離を埋めたいとは思っても、嘘を付いてしまう。自分は自分自身を安っぽい装飾でくるめようとする意識がある限り、実にありきたりの三文役者の嘘をつき続けてしまうだろう。
「どうせダマすなら、最後までダマして欲しかった」という男女の話しがあったり、アラーキーさんのインタビュー言葉も思い出す。
「写真なんてえのはどうせ表面しか映らねえんだから。本当のことに嘘を小さじで入れると、ぐっとリアリティが増すんだ。どうせ嘘を付くなら、魅力的な嘘を付きたいね。」
こう言って、天才写真家の言葉を引用すること自体、すでにうさんくさい。自分は徹底的にこういう安っぽい人間なのだ。
YMOに憧れ、ロキシー・ミュージックの「アヴァロン」に憧れ、時代を過ごした自分には、そんな幸福な時代が再び来ないだろうか。。。
とストレスが溜まって行くうちに、体内で繰り返せる白昼夢の脳内麻薬装置が出来、うんぬんかんうんあって、今に至っている。
ハタチまでで恐怖を味わった経験ゆえに、白昼夢に至る回路に頼ってしまう。
そのクセは、自分の精神バランス上の寄る辺なので、数十年経っても大して変わらない。
赤子が乳離れしずらいように、自分は白昼夢から離れられない。日々似たような妄想世界で、寝言を言っている。
それをビョーキとするか否かは、誰かにゆだねるが、それをビョーキというなら、人間全員ビョーキなんだろう、と心の中で開き直る横柄さも覚えた。
まだ、そんな紆余曲折”前”の若い人たち。
彼らが持って当たり前のこと・・・先々への不安や憂い、あんたんたる状況。
それは、自分のような気付かぬうちの年長組とは別だろうが、だからといって歳を重ねたから悩みが全部解決する訳でもない。
安定するわけでもない。
それは自分のような偏りのある愚者だから、そうなるんだ、という部分もあるけれど、それを差し引いたって、ラクでも何でもない。
そこに最近は、幼い頃あった、死への恐怖をどう受け入れるかが、むしろ追加された。
毎日毎日不安定な不安は、暮らしていたら大なり小なり、誰もが持っているんじゃないだろうか。
養老孟司さんに言わせれば、家の無い放浪者でさえ食べるに困らないクニのちぐはぐさ。
命を左右する事態にさらされた国に住まう方々に比べれば、あまちゃんだろう。
親の世代が苦労してきた時代を経験せずに、自分は多くの人たちに育ててもらったが、それでも憂鬱を抱えたままこうして良い歳になってしまった。
自分自体が、戦後に生まれ育ったあまちゃんなのだ。
リアリストである兄が、珍しいことを言うものだなあ。。。と思った言葉を思い出した。
兄当時20代、自分当時10代と20代の境目。
さかんに悲観的な言葉を吐く自分に「そんな自分に優しくない言葉は良くないよ。
たしかに20も越えたら、これからはマイナスしか無い。持ちうるものをどうにか組み合わせてしのいでいくしかない。
でも、自分しかそれは分からないんだから、誰が自分を応援するんだ。誰も他には居ないんだから。」
「どうせ嘘をつくなら、見事でロマンチックな嘘をつかなきゃあ・・・」と言い、「ねぇ」とインタビュアーに同意を求め、哀しさを押し殺して、例の高笑いをした荒木さんを思い出す。
カネがなけりゃ現実生きていけないが、だからといって、カネだけのために生きてるわけじゃない。
そもそも、カネのために生きる、という言い回しは矛盾した表現だし。
などとゴタクを並べられるのも、今が場所から離れた、休める夜時間だからだけのこと。
明日になれば、明日は明日で、必死こいてもがいていることだろう。
”産まれてきたぜ、よろしく”と偉そうな態度で泣き叫んでいたのも、遠い過去の夏のこと。
■吉田拓郎 「イメージの詩(うた)」1970■ 詞・曲:吉田拓郎
この曲が、昨日、四苦八苦している「現場」に掛かる、TBSラジオ「たまむすび」から聴こえてきた。
西尾久に住んでいた束の間時代、みうらじゅんさんの「サブカルジェッタ―」を毎週土曜日聴いていた。
えのきどいちろうさんがゲスト出演した回、2人が共通して影響を受けた拓郎さんを熱く語った夜が甦る。
この「イメージの詩(うた)」に出会ったのは、安斎さんとのラジオ番組。
数年を経て、昨日の昼過ぎ・再度聴いたこの曲にとても感銘を受け、啓示的なものを感じた。
こういった偶然も重要なガソリンですな。。。と締めくくる。
『”これこそは”と信じれるものが、この世にあるだろうか?
信じるものがあったとしても、信じないそぶり
かなしい涙を流している人は、きれいなものでしょうね
涙をこらえて笑っている人は、きれいなものでしょうね
男はどうして女を求めて、さまよっているんだろう?
女はどうして男を求めて、着飾っているんだろう?
いいかげんなやつらとクチをあわして、俺は歩いていたい
いいかげんな奴らもクチをあわして、俺と歩くだろう
闘い続ける人の心を、誰もがわかってるなら
闘い続ける人の心は、あんなには燃えないだろう
キズつけあうのがこわかった昔は、遠い過去のこと
人には人を、キズつけるチカラがあったんだろう
吹きぬける風のような俺の住む世界へ、一度はおいでよ
荒れはてた大地に、ちっぽけな花を一つ咲かせておこう
俺もきっとキミのいる太陽のあるところへ行ってみるよ
そして きっと言うだろう
来てみてよかった
キミがいるから
長い長い坂を登って、うしろを見てごらん
誰もいないだろう
長い長い坂をおりて、うしろを見てごらん
みんなが上で手を振るさ
きどったしぐさがしたかったあんた、鏡を見てごらん・・・
きどったあんたが映ってるじゃないか、あんたは立派な”ヒト”さ
激しい激しい恋をしている俺は、いったい誰のもの?
自分じゃ言いたいのさ
”キミだけの俺”だと、”キミだけのものなんだよ”と
裏切りの恋のなかで、俺は一人もがいている
はじめからだますつもりでいたのかい?
ボクの恋人よ
古い船には新しい水夫が、乗り込んで行くだろう
古い船を今動かせるのは、古い水夫じゃないだろう
なぜなら古い船も、新しい船のように新しい海へ出る
古い水夫は知っているのさ
新しい海のこわさを
いったい俺たちの魂のふるさとってのは、どこにあるんだろうか?
自然に帰れって言うことは、どう言うことなんだろうか?
誰かが言ってたぜ
俺は人間として自然に生きてるんだと・・・
自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう
孤独をいつの間にか”さびしがりや”と勘違いして
キザなセリフをならべたてる
そんな自分をみた
悲しい男と悲しい女のいつものひとりごと
それでもいつかはいつものように、なぐさめあっている』