こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

おしっこやられちゃいました。

2009-09-20 11:15:29 | 写真日和


まみちゃんとの「合宿」は昨日からスタートしたが、何とか、東向島の我が家にも慣れてくれたらしく、ご飯もお水もちゃんと飲食し出したし、トイレでおしっこもしてくれた。

しかし、朝寝坊のかたちんばが、10時に起きたら、出しっぱなしだった「こたつ」がやけに濡れているなあ・・・と思ったら、「おお!やられた!」。
掛け布団も敷布団もびしょびしょだよ。
やれやれ。

さっき、お医者さんから電話が来て、先生が「調子はどうですか?」というので、おしっこのことを伝えると、環境の違いもあるけれども、薬の関係で、色んなところでおしっこする可能性もあるので、もし、ひどかったらまた電話ください、とのこと。



今は、部屋の隅っこで寝ています。
今日は、少し暑いので、涼しいところを選んでいるのかもしれない。

実家でも、まみちゃんもフローリングのすべすべしたところが大好きなので、(うちは全部フローリングなので)そういう意味では、住みやすいのかもしれない。

ご飯は、食欲旺盛で、さっき新しいカンズメを開けたら、がつがつと食べてくれた。
少しずつ動いたりもするので、調子は良いようだ。

***

一方、僕の方は、TBSラジオ「安住伸一郎の日曜天国」を聴いて、アップルジュースを飲んでます。

今日も、まみちゃんと2人、だらりんちょんとのんびりするつもりです。
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まみちゃんとの添い寝

2009-09-19 22:55:08 | 写真日和
いつの間にか、パソコンの前で、かたちんばは酔って寝てしまっていました。
「はっ、やばい!」と思って、22:30起きると、まみちゃんは、自分の横に、川の字のように添い寝していました。



疲れた1日だったのか、安心して寝ていました。
音を立てないように、シャッターを切りました。



窓は少し開いていましたが、涼しい風が入って、外は静かで物音もしません。
ときどき、チャリチャリと音はしますが、それは、よく遊びに来る向かいのミケネコ「メロンちゃん」が外で遊んでいるからでしょう。



こんなおだやかな顔が、いつまでも続けばいいのに。
そして、こうしていつまでも、2人一緒に眠れればいいのに。
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まみちゃんとの同棲生活開始

2009-09-19 20:14:46 | 音楽帳


今日は、12:00に竹ノ塚にて、お袋・お兄ちゃんと3人で待ち合わせて、動物病院に、まみちゃんをむかえに行った。

先生の説明を聞き、それから、ペット・ボックスに入れて、途中で、ロイヤルホストで3人で食事をして、それから東向島に向かった。

***

お袋さんは、16時ごろ帰ったが、それからお兄ちゃんとビールと夕食を摂った。

まみちゃんは、しばらくは、違う家に戸惑ってボックスから出てこなかったが、何とか数十分後に出てきた。
水と最高級のやわらかいペットフードと、トイレを用意したら、ちゃんと水を飲み、ご飯も摂り、トイレでおしっこもしれくれた。

まずは、一安心。

しかし、夜、4種類の粉薬を飲ませるのに、苦労した。
4種類の粉薬を水で溶かして、スポイトで口に運ぶのだが、いやいやするので、座布団を被せて、口の横から無理して、薬を飲ませる。

かなり暴れたので、足を引っかかれて負傷を負ったが、何とか飲ませることが出来た。暴れるくらい元気になったのだ。

5日間の同棲生活も、何とかなりそうだ。

今は、ぐったり、いつものまみちゃんの「だらりんちょん」の格好をしているが、目もしっかりしているし、しばらくは大丈夫な様子だ。
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竹内まりや   「とどかぬ想い」'84年

2009-09-18 06:00:02 | 音楽帳


FMの音 流れる この部屋にいるのは
ふたり だけ
ときめくままに 夜を飛び越えて しまえたら
なんて 素敵

ことばにする 勇気がなくて
せつなくなる

ここに 私を呼んだこと どう思えばいいの?
何か 言って

私だけの 勘違いなら
あきらめるわ

許されない 愛にとまどいながら
胸に 秘める 想い
胸に 秘める 想い
胸に 秘める 想い


作詞:竹内まりや
作曲:竹内まりや


1984年 アルバム「ヴァラエティ」より

***

アルバム「ヴァラエティ」は、高校生の頃、よく聴いた。
1982年、山下達郎と結婚してから、家事に専念するため引退した彼女が、家事の合間を見て日ごろ創りためていた曲があったのを、達郎さんが、それぞれの曲の完成度が高いので、「アルバムにしたらどうだろうか」という提案で、実現したのが、この「ヴァラエティ」発売のきっかけだった。

当然、アルバムは、ほとんど山下達郎と竹内まりやの2人で創られているが、「本気でオンリー・ユー」では、丁度となりのスタジオで矢野顕子さんと坂本龍一が作っていた「峠の我が家」の録音に出向いて、昔は毎日2人でだらだら過ごしていたという旧友(山下達郎と坂本龍一)同士の縁があって、坂本龍一が、ピアノを弾いている。

***

「ヴァラエティ」は、その名の通り、様々なタイプの曲が、山下達郎曰く「幕の内弁当」のように、1枚の中に納まっている。

発売当時、2週間に渡って、「山下達郎のサウンドストリート」で、竹内まりやを招いて、特集が組まれた。
当時のラジオテープは、今でも大事に保存している。

その中でも、かたちんばが特に好きなのが、この「とどかぬ想い」という曲である。
自分の女神様=まりや様の声が、切ない1曲。

***

日々、仕事三昧で、疲れて磨り減るだけの中、竹内まりや様の曲は、その磨り減った自分を癒してくれる。

何十時間もかけて資料を作り、やっと昨夜、夜の12時までかけて創った資料が、今朝(17日)仕上がり、その資料を元に、またもや、その資料を元に、13:00から自ら会議進行を行い、何とか無事、会議は終了した。

少し、開放感があって、その後、机に座りながら、居眠りをしてしまった。

その安堵感からの眠りがひどいので、19:30に仕事を上がって、早々においとまして、20時過ぎ、東向島の駅前の中華屋で、一人きりでの祝杯を上げた。
ビンビール2本と、餃子・野菜炒め・ご飯を食べたら、もうふらふらで、21時過ぎに家に帰ると、灯を付けっ放しで寝てしまった。

***

起きると、4:30.
眠れなくなって、音楽を聴き、またビールを飲む。
夜が、白々と明けてくる。

明日、1日行けば、5連休だ。

***

【昨夜のノートより】
今日も、泣きながら23:50まで仕事。
明日、午後の会議資料終わらないが、仕方なく、駅に急ぎ、0:00発の電車に乗る。
心身共に沈没しそうな感じ。
今日、兄とお袋さんで、まみちゃんを医者に連れてったが………。
兄から、午前中どたばた仕事している中、電話あり。

「……まみちゃんの内臓の悪さは、肝臓まで転移している。
……残念だけど、保って、あと2ヶ月だそうだ。
再入院させてきた。

土曜日に、お袋さんと待ち合わせして、引き取りに行ってあげてくれ…。
先生から、薬の飲ませ方と、注意点をよく聞いて…。」

やはり、まみちゃんの元気さは、一時的なものだったようだ。
土曜日、竹ノ塚の駅で、お袋さん・お兄ちゃんと3人で待ち合わせして、まみちゃんを病院から引き取り、東向島の我が家まで3人で連れてくることになった。

この5連休は、まみちゃんと過ごす、最後のバカンスになるのかもしれない。
最後の添い寝をしながら、まみちゃんと色んな話をしようと思う。
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竹内まりや   「駅」 '87年 

2009-09-18 05:14:08 | 音楽帳


以前に、ニコニコ動画から、この、私の女神の中の1人、まりや様の素晴らしい2000年の武道館ライブでの「駅」の動画をアップしたのだけれども、また聴きたくなってニコニコ動画に行くけれども、削除されていて、YOUTUBEにアップされていたので、再アップしました。

ニコニコ動画より、動画の画質が落ちてしまっているし、画面が左右反転してしまっているけれども、どうしても聴きたくなってしまったので、再アップしました。

***

DAVID SYLVIANの「9月」をアップした際に、

「やはり、今年も、9月がやってきて聴くのは、アース・ウィンド&ファイアの「セプテンバー」でもなく、竹内まりやの「セプテンバー」でもない。
 深遠なるデヴィッド・シルヴィアンの名曲「セプテンバー」である。」

と書いたが、それは、メディアの短絡さを言いたかったので、9月1日になった途端に急に「今日からは、9月、秋ですねえ~」という、FMのどうしようも無い、アホなDJに、女神様=まりや様の曲を、やたらとかける知能度の低さを言ったのであって、竹内まりやさんは、「不思議なピーチパイ」も含めて昔から、大好きである。
1982年に山下達郎さん(この人の音楽の素晴らしさにも、ただ感服するばかりである)という素晴らしい伴侶を見つけて以来、メディアに出る機会は少なくなったが、久々に、というか、ほとんど世間に顔を出すことの無くなったまりや様の2000年の武道館ライブでの歳を取ってさらに美しくなった彼女の美しさ、そして、心のこもった歌い方、胸が打たれます。

***

この「駅」のライブの素晴らしさ。
「駅」は、1987年の曲で、まりや様が、作詞・作曲した名曲だが、時代を越えて残る曲の中の1曲だと思う。

別れて2年という間の時間の経過、それによってそれぞれの道を歩きだした2人。
そんな中、彼のレインコート姿の寂しい背中にばったり駅で出会ってしまう。

しかし、このたった2年が、もう戻しようも無い、それぞれの線路の違いへと繋がってしまった事実は変わらない。
わずかな時間と共に、もう戻しようもなくなってしまった事実、時間の残酷さ、それが、見事に表現されたリアルな曲である。

バックで、リズム・ギターを山下達郎が刻んでいる。
キーボードの人が、泣きながら演奏をしている姿が印象的である。

***

このライブDVDが欲しくて探している。
去り際に、手を振るまりやさんの手の振り方が、昔と同じように、独特な、アメリカナイズされた、彼女の昔と同じ手の振り方であるのも印象に残る。
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5連休は、まみちゃんと過ごす。

2009-09-14 23:52:03 | 写真日和


昨日は、ともかく、「鬼畜親父」を兄貴がねじ伏せたが、その代わりというと何ですが、今日、兄から電話があり「5連休、家でまみちゃんを預かってもらえないか?」とのこと。

仕事は、行き詰っているが、「これは、仕事を休みにするのはやめろ」という神さまの声かもしれない。

まずは、僕の家で、どんな風に、まみちゃんが反応するのか、まみちゃんにとっては「初めてのお泊り」を経験させるつもりで、預かることにした。

トイレとか、それ用の砂や、やわらかいお魚のキャットフードなどを買わないと。

昔はよく一緒に寝たが、そういうのも久しぶりだし。
どんなに元気か、嫌味を込めて「クソ親父」に電話してやろう。

***

土曜日は、昭和5年生まれのチャキチャキの江戸っ子のお袋さんが、そもそも「シカゴ」のコンサートに行くのもあり、親父とコチャコだけを置いておくのも危険だしね。

自分の親父への嫌悪は、幼少から始まるが、歳を取って、ずいぶんと物分り良くなり、自分の方も成長して、もはや「他人」という意識になることが出来たから、普通に、「対 父親」では無く、「対 他人」として、捉える事が出来るようになっていたのだが・・・、今回の件で、急にふつふつと昔、よく親父を殺すことばかり考えていた日々を思い出してしまった。

最近、よく「親殺し」が起きるが、自分は、その点ではよく理解出来る。
(但し、その怒りやストレスのはけ口を他人に向けたりするのはNOである。)

僕が、彼らと違う点があるとしたら、「殺した」か「殺さなかった」かの違いであって、そのカベは極めて薄いと思っている。
自分は偶然、その多感な時期に、勇気が無かったのか?抑制が効いたのか?大した理由は無いが、「結果」「殺さなかった」だけのことである。

***

一方、母親は、下町の東京っ子のイキなかあさんで、昔は洋裁を自分の家で、多くの花嫁前の若い子を相手に教えていたし、とにかく音楽が好きな人で、よく服を作るのに夜なべをして、ミシンを踏みながら、FMを聴いていた姿が浮かぶ。

幼い頃、僕の家には、冷蔵庫の上に、アブラまみれのラジオがあって、1日じゅうFMが流れていた。
僕が、70年代の音楽を多く知っているのは、当時、知らない間に、幼い頃から「刷り込み」のように、いろんな音楽を・アーチスト名はわからないながら、聴きこんでいたのがある。

また、幼稚園の頃、土曜日には、親子の「お絵かき教室」があって、そこに通わせてくれて、絵を描く楽しさを教えてくれたのも、お袋さんだった。

***

暗くて・陰湿で・神経質というより精神病じみた面を持った親父と、まるで逆の性格を持ったのがお袋さんとも言える。
お袋さんは、どこに行っても楽天的で、すぐどこでも友達が出来てしまう、という凄い人なのだ。

数年前、胃がんで2/3を切除したけれども、すぐ、まみちゃんのように奇跡的な復活を遂げ、「あたしには、後が無いのよ!」と言いながら、朝からディープ・パープルやレット・ツェッペリンなどのハードロックからマリリン・マンソンやらレディオヘッドまであらゆる「ロック」を聴きながら、毎月、来日するロック・コンサートに行く79歳のおばあさんと呼べない、劇的母さんなのだ。

まあ、そういう風に、水とアブラが結婚した訳だから、幼少の頃から、ずっと、毎日「たけしくん、ハイ」のように、ケンカの嵐の中を、僕と兄貴は生きてきた。

***

そもそも、自分が家を買って、実家を突然出たのは、兄貴の「もう、お前は家を出ろ。」というコトバ一言が起爆剤だった。

いつまでも、2人の間に引き裂かれながら、全体の調整をするのは止めて、自分の人生を生きろということだったのだろう。

コドモ2人が消えた家では、2匹の猫たちが間を取り持ちながら、次第に老年化と共に、ケンカも少なくなってきたかと思っていたのだが・・・・。

***

まあ、何はともあれ、自分が5日程度、まみちゃんと過ごすことで、少しでもお袋さんの気苦労が減るなら、そうしたい。

ネコは家に着くというコトバは正解で、自分の居慣れた場所に居るのが一番幸せなのだが・・・・。

「WELCOME まみちゃん」の横断幕でも貼って向かえるか。
本人は、しばらくはとまどうかもしれないけど。
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「かたちんば」抜き家族会議の結果

2009-09-14 00:38:24 | 雑記帳
今日は、現実的に暗かった。

私は、仕事場に行き、月曜日の打ち合わせ資料を22:00過ぎまで作っていた。
ずいぶん前に買ったのに、聴いていなかった教授の新作「OUT OF NOISE」を、CDウォークマンで何度も何度もくり返し聴きながら、パソコンに向かって・・・。

【「OUT OF NOISE」 坂本龍一】

かたや兄は、まみちゃんの件の現場確認と状況を納めに、草加の実家に向かった。

兄は、まみちゃんが生まれた時には、既に結婚して実家に居なかったので、時々実家にみんなで集まる時くらいしか、まみちゃんとの接点は無かったので、お袋さんとも、今回の件については、兄には余り言わないようにしようと言っていた。

しかし、鬼畜親父のワガママが、久々に噴火して収まりが付かなくなって、兄に電話してさんざんグチを言ったせいで、兄が実家に行かざるを得なくなったのだ。

いわば「かたちんば」抜きでの家族会議である。

***

昨夜、兄と電話で話した。

かたちんば「”彼ら”の本当の負担になっているならば、僕が引き取る。まみちゃんには可愛そうだが、それしかない。」

お兄ちゃん「お前、本当にそれでいいのか?」

かたちんば「ああ、いいよ。」

お兄ちゃん「お前と俺しかわからないと思うが、あの”彼”は本当に心底"弱い”ニンゲンなんだよ。
もう少し、あのヒトもその弱さを変えることも出来たはずなのに、結局、この歳まで、俺らも含めて変えることが出来なかった。」

かたちんば「20歳を越えたニンゲンなんて、もはや変わる訳なんかあるわけ無いじゃないか。」

お兄ちゃん「そういう言い方をするなよ。方向性を少しでも変えるタイミングもあったはずなんだよ。」

かたちんば「あのヒトが弱いことはよくわかっているよ。自分もその弱さを引き継いでいる訳だから。
ただ、今回は譲る訳にはいかないんだよ。
今まで、僕は、あのヒトに頼まれて、生まれた子猫を(ある程度育てた上で)捨てに行ったこともあるし・・・。」

お兄ちゃん「それは、俺も同じだよ。昔、色んな事があったよ。」

かたちんば「前のピー助の時は大阪に居たから、立ち会えなかったけど、相当苦しんだらしいので、安楽死させたのは、仕方が無かったのかもしれないけど、今回は違うんだ。」

お兄ちゃん「ともかく、状況がわからないから、とにかく明日行って確認してくる。
何なら、その足で、まみちゃん引き取ってお前の家に行っていいか?」

かたちんば「当然、いいよ。ただ、明日は同席できないんだ。」

お兄ちゃん「それはわかっている。お互い忙しい身だから。
ただ、自分は、今はある程度余裕が仕事にあるので、大丈夫だから。」

かたちんば「わかったよ。まかせるよ。」

お兄ちゃん「明日、向こうから電話するよ。」

***

15:00ごろ、ケイタイが鳴った。
兄からだった。

お兄ちゃん「今、お前の家で飼うのは、難しそうだ、という結論になった。
日中居ないと、おしっこの世話や、飲み物の手間もあるようだし。
お袋さんも、自分で診たいと言っているし。

今週、水曜日に、まみちゃんを医者に連れて行く日らしいから、自分がくっついて行って、先生にいろいろ聴いてくる。
結論は、それからにしよう。

・・・おお、お前と電話しているのがわかるのか、こっち向かって歩いてきたよ(笑)。ちゃんと立って歩いているよ。
水も飲んでいるし。」

かたちんば「<若干、怒りを込めて>だから言っているじゃないか。確かに、まみちゃんは、数mの範囲しか動かないけど、それは、退院した時からそうなんだ。
別におかしいことじゃなんだ。
それに、エイズや白血病のキャリアだけど、数値も安定しているし、それだけで死ぬことは無いんだよ。」

お兄ちゃん「お袋さんやお前が、一番状態を詳しくわかっているんだろうけど、自分が行って、自分でも先生に、状態をじかに聞きたいんだよ。
それから、どうするか決めよう。」

***

結局、結論は先延ばしになったが、やっぱり「鬼畜親父」の言うことは「大嘘」で「大げさ」であった。
多分、お袋さんは、何も「鬼畜親父」が言わなければ、ちゃんとまみちゃんの世話をして行きたいと思っているのだと思う。

しかし、自分が、その場に居られない怒りと「なんでみんなわかってくれないんだ」という嘆きで、バカらしくなってきた。

水曜日は、午前中に医者に行くそうだが、仕事の調整が効くかどうか、明日、仕事場で確認する。
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「君といる」

2009-09-13 00:35:55 | 雑記帳
昨夜は、珍しく早く仕事を上がり、19時には家に着いた。
何てこと無い。
仕事に疲れて帰って来ただけのこと。
仕事の残りは日曜日にしようと思って。

食事・夜の洗濯・ラジオ「アクセス」を聴く・インターネットをする・ブログを更新する・・・・

そうしているうちに、夜中3:30になってしまう。

しかし、疲れを取ろうと思って、いつも試したことの無いことをしてしまった。



通常の3倍の睡眠薬を飲んで寝てしまったのだ・・。

***

土曜、付けっぱなしのラジオで、タイガーズのナイターがかかっているのに気づいて起きると、なんと20:00だった。

すると、ケイタイメールにとんでも無いことが起きていた。

09:41 「鬼畜親父」より(原文そのまま)
「毎日ご苦労さまです。
さてマミ子の件ですが、癒しされ、愛にめぐまれましたが、現状好転の目処がみられず、このまま生かしても間もなく最終を迎えると思います。
可愛そうですが、思いでは一層あると思いますがこの辺で結論を出したほうが良いと思います。

思い出はあの世にいってから色々出るでしようが、お母さんも私もストレスが溜まり、人間のほうがいかれてしまいます。
君に遠慮し連絡してくれないかと打診があったが思いきって連絡した次第。
今友達の所え行っていて留守ですが。

私からの提案です。
この10日間睡眠も出来ずノイロ―ゼ気味です。
君がもう少し面倒を見るならそちらにお任せしますが。」

13:16 「鬼畜親父」より(原文そのまま)
「午前中に私の現状を連絡したが返信位いしても良いと思うが常識と思うが。
君の意見位い呉れてもよいとおもうがね。

先日座椅子送って呉れた品お返しいたします。
バカ親とおもうなよ。」

やはり、「鬼畜親父」の遺骨は燃えないゴミの日に出すしかないと思いました。

しかし、一応すぐ電話し、話をしましたが、ホントかウソか解からないですが(コイツは昔から大嘘付きなので、多分ウソだと思いますが)、まみちゃんは、もう食事も摂らなくなっているし、弱ってきている、それからお袋さんは気苦労で痩せている、とのこと。

しかし、本来、動物が居ることが孫代わりとなって、日々の癒しとなっていたはずが、確かに老夫婦の負担になっているのならば、「もう無理」なのだと思う。



寝ている間に、兄の方にも連絡あったらしく、長々とグチを言ったらしい。
仕方なく、兄は実家の草加に明日行くそうである。

***

兄に連絡を入れたが、留守電になっていたので、メールを打つ。

かたちんば → 兄へ(原文そのまま)
「明日草加に行くそうですが、自分も同席すべきなのですが、月曜日の会議資料を明日仕上げないといけないので、申し訳ないのですが明日は行けません。

明日、また電話掛けますが、さっきから、いろいろな手口を考えていろんな動物病院に電話したりしていたのですが、これ以上、お袋さんに負担を掛けられないので(親父からのお袋さんへの叱責含めて)、自分の家の3階の部屋に住ませよう思います。

日昼居ないのは可哀相ですし、実際はいろんな問題が出るでしょうが、今はまみちゃんも余り動かないし、トイレと水と食べ物を用意しておけば、なんとかなるとは思っています。

さっきスーパーに行って、ペットコーナーを見たのですが、猫トイレは無かったので、他の店で買います。

ネットで調べて、ペットホテルも考えたのですが、宿泊費は安いので問題無いのですが、檻のような所ばかりで、閉じ込めて置くのはいかがかと思いましたので。

鐘ヶ淵にも設備ある犬猫病院があるのも発見しましたし、そういう形で話を進めてもらえるようにお願いします。」

***

昼間居ないのは可愛そうだが、もう僕がまみちゃんを見るしかないと思っている。
まみちゃんを勝手に、安楽死させる訳にはいかないのだから。



「君といる」 高橋幸宏

どんなに心が痛いときも しずかに涙かくして
たとえば その笑顔さえ ホントウの君じゃない

そんなに悲しく生きなくても 愛なら すぐそばにある
手をのばしてふれてみて 僕は今ここにいる

こんなに遠く感じる夜も 夢なら君とみている
目を閉じれば わかるはず 僕はホラそこにいる

ここにいる
僕は今 君といる

作詞:高橋幸宏
作曲:高橋幸宏
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坂本龍一  フランス映画「Tokyo Melody」 '85年6月日本上映

2009-09-12 02:48:27 | 音楽帳


1985年4月から、自分は「素浪人」となった。
ここから、1987年3月までの期間の自分を、僕はしょちゅう、しつこく、執拗に、振り返っている。
それだけ、時代の波間に漂う苦しいエア・ポケットに入ったかのような状況だったのだろう。

大学に行かないといけないという「しきたり」はありながらも、自分にはそういう気が起きないながらも、「じゃあ、逸脱して、どこへ行くんだい?」という自問自答の悩みの中、逃げ場も無く、宙ぶらりんの精神状態で居たのだったから。

1985年4月に、坂本龍一&トーマス・ドルビーの「フィールド・ワーク」を御茶ノ水で買い、それを聴きながら、今で言えば、いわば「ニート」のような宙に浮いた新しい心身の状態に入り、御茶ノ水-神保町-水道橋当たりを、人ゴミに紛れて、とにかく悶々と歩いていた記憶が強い。

中学3年生に「発芽」した心身不調=ノイローゼ・鬱・精神分裂病への傾きは、1987年の「自殺未遂」と「自己崩壊」を迎えるまで、なだらかに続いていた。

***

そんな折。
1985年6月某日-<過去のメモ帳が出てこないので、日付は不明>



たった1日だけ、坂本龍一のドキュメント映画「TOKYO MERODY」というものが渋谷のNHKホール(? もしくは、その近く)で上演されるのを知って、キップを予約して買い、慣れない渋谷と言う街におどおどしながら、それ用に買った新品のクツと白いチノパンとジャケットを着て、蒼白い顔をしてふらふらしながら、キップを握り締め見に行った。

その日には、ジャケットは少し暑かったが、脱ぐ余裕無く歩いていた記憶がある。

当時、「超」資本主義に向かい、世界の中心たる最先端都市「TOKYO」のカオスと、古い日本の匂いを残した「東京」の入り混じる、1984年5月の「トウキョウ」のまさに、その時代空間の断面を切り取った、記録的要素も持つ、映画だった。

***

1984年5月の東京・日本での坂本龍一。
それは、まさに「音楽図鑑」が、アルバムとしての録音の後期の段階に入った頃のこと。



先に述べたように、長期に渡る長時間のスタジオ・ワークを費やしても、曲やその断片ばかりが、まとまらない状態で散乱し続ける悩みを抱えながらも、日々、そのほとんどを、この「・・・・?」何というタイトルになるかも、どういう形に筆を下ろすかも、皆目検討のつかぬ中、スタジオ・ワークを続けていた。
中には、ボツになった曲(曲名不明)を大層な時間をかけて、深夜までかけて創る教授の姿も映る。

<1981年4月~始まった「坂本龍一のサウンドストリート」を毎週聴きながら(=高野寛いわく「僕は教授から毎週通信教育講座」をラジオを通して学習していた)、教授の様々な側面は見てきたが、坂本龍一の実際の本当の日常を「映像」として切り取ったものは、これが初めての記録映画だった。>

***

スタジオでの風景、悩みながら譜面を書いたり、何度も演奏をくり返し、ああでもないこうでもない・・・そういう苛立ち。

そんな中に、スタジオ以外の様々なシーンが挟み込まれる。



街に佇む。
森をめぐり、カメラのシャッターを切る。
東京タワーに登り、手形占いをし、左手で自分の名前をその紙にサインする。
街をクルマで移動し、電話をする・・・・・。

自宅で、矢野顕子と2人でピアノで「東風」を弾く。

そして・・・・あたかも遠し過去のYMOを振り返るようなシーン。
(といっても、YMOが「散会」したのは、1983年12月末なのに)

1984年2月まで撮影が行われた「アフター・サーヴィス」期間に制作された映画「プロパガンダ」が、新宿ALTAのオーロラ・ビジョンに映る中、教授は遠い目をする。
<それは、この1980年代の時代速度がいかに速かったかの証明でもあるのだが>

ニッセイのCM(曲は「君について」)。
1982年の「戦場のメリークリスマス」のシーン。
時計のALBAの広告(教授と外人女性のポスター)。

そして、教授のインタビューと語り。

その一方で、原宿のタケノコ族の踊り・縁日の金魚・祭りの神輿や太鼓・秋葉原の電気街・渋谷の街の俯瞰・地下鉄銀座線のホーム・通勤ラッシュの雑多な人々に切符切りの駅員・郊外の団地・高速・・・・・など東京のシーンが入り混じる。

***

最後、スタジオで、「セルフ・ポートレイト」を弾くシーンと、東京の街の風景・人々が入り混じるカタチで終わる。(その弾く背中姿が、なぜだかすごくいとおしく切ない・・・。)

当日、売店で買った「TOKYO MELODY」のパンフレットを、僕は、今でも大事に保存しているが、その中で、当時サブカルチャーの旗手だった中森明夫が文章を寄せている。

そのタイトルが「坂本龍一になりたい」というものだった。
自分は、深く、このコトバにうなづいた記憶がある。

***

ちなみに「TOKYO MELODY」は、後に、JANISでVHSヴィデオで購入することが出来たが、今はDVDでも出ているとのことである。


■■■「TOKYO MELODY」

・上演時間 63分
・プロデューサー: ジャン・ロジェ・サンネ
・監督: エリザベス・レナード
・制作: フランス国営放送(ヴィジュアル・インスティチュート)
・ヴィデオ制作: ヨロシタミュージック
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EPO 「音楽のような風 (ビクターヴィデオテープCM曲)」'85年8月5日発売

2009-09-09 23:45:16 | 音楽帳


初めてCMで、この「音楽のような風」を聴いた瞬間に、この曲が一発で気に入ってしまった。
なおかつ、姿を変えたストレートヘアの、美しいEPO(エポ)が立っていた。

本当に、曲名と言い、詞といい、曲もいい、素晴らしい、そうすぐピピッと来た。

***

それは、EPOさんの、はめられてきた枠への反発、そこからの脱出、自由に向けた開放の一歩だった。

EPOは、日本女子体育大学にも通っていたし、ということで、レコード会社がやたらと「元気」「スポーティー」「明るい」というイメージ作りを行ってきた。
かわいそうに、音楽雑誌にも、Tシャツに短パンで走っている写真だの、かなりちぐはぐな衣装を着せられていた。

かたちんばは、「はっきり言って」面白くも何とも無い、と思っていたが、フジテレビで毎週土曜「おれたちひょうきん族」という「お笑い(? 全然笑えなかったんですが)番組」があり、その初めや終わりのテーマ曲がEPOだった。(「DOWN TOWN」とか「土曜の夜はパラダイス」とか)

のちのち、EPOさん自身が告白していたが、それらのイメージ付けの一切が、イヤでイヤでしょうがなかった、という。

僕自身も、そういう「元気」「スポーティー」「明るい」という人種が吐き気がするほど嫌いだったので、当時の彼女の存在はうっとうしく感じていた。

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その「イメージ破壊」の一発目が、この「音楽のような風」だった。



レコード会社は、教授の設立した「MIDI(ミディ)レコード」からである。

ここから、素晴らしいシングルの応酬で、EPO自身が「自分らしく・存在する」ということへの道が開かれていった。

後の1986年に発売されたアルバム「PUNP!PUNP!」も、自分はまっすぐな気持ちで、発売されてすぐ買って愛聴していた。
明らかに、この人は、自分らしくあろうと、変化しようともがいている、という事を、このシングルやアルバムから、はっきりと読み取ることが出来た。


【「音楽のような風」 By EPO】

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EPOさんは、あらゆる面で、娘の彼女を否定的にしか捉えてくれなかった母親との葛藤があり、表面的には「キレイなおねえさん」でありながら、精神的・内面的な悩みを抱えながらの音楽生活だったという。

そんな彼女は、後に、セラピストの資格を取得し、カウンセリングを行なうカウンセラーや、矢野顕子さんの「出前コンサート」のように、少人数でも「EPOさんの歌を聴きたい」という投げかけに応じて、小さなコンサートを開いたりという活動が中心になっていく。
それは、自分への癒しであり、母親からの離脱であり、精神の開放へ・・・という流れだったのだろう。

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数年前、営業をしている頃、珍しくFMを聴いていたら、EPOさんの番組がやっていて(それは地方局だったかもしれない)、その語り口調の優しさと、まっすぐにモノを見つめて語る姿勢が、とてもピュアでナチュラルに感じることが出来た。

そんな今では「自分」を取り戻すことが出来たEPOさんの、初めての「突破口」が、この自然で素晴らしい曲「音楽のような風」だったのである。
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