こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年7月17日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~サハラ砂漠でお茶を~

2014-07-17 23:02:44 | 音楽帳

1983年は、ニューヨークのヒップホップ文化が多様なポップミュージックに影響を与え、ニューオーダーの「ブルー・マンデー」「コンフュージョン」に始まり、ローリング・ストーンズ(の当時新作「アンダーカヴァー・オブ・ザ・ナイト」にまで)影響が伝播していた。
(と言っても、ストーンズメンバーがヒップホップを演じる訳ではなく、エッセンスとしてエンジニアが取り込んだものに過ぎないが)

そんな中で、1983年暮れ近くに発表されたホール&オーツの素晴らしきシングル「Say It Isn’t So」。
この曲には、東西?右派左派?限らずの喝采の嵐。
80年代初頭、彼ら二人が産み出すソウルフルな音楽世界が、MTVを伴って世界に広がった末に、シングル「Say It Isn’t So」に到達した幸福な世界。二人の内的エネルギーの発露。

それを経て、1984年発表された新作は「Big Bam Boom」。(後のスクリティ・ポリティの作品名のよう)
この1984年特有の切迫感がにじむ時代状況下でありながらも、ホール&オーツ頂点の季節。

この作品には、ある極みまで来れたがゆえの余裕・遊びがある。
アルバムの音作りは、当時売れっ子のアーサー・ベーカー(上記「コンフュージョン」等12インチで活躍)と1982年ロキシーの「アヴァロン」を産み出したボブ・クリアマウンテン。

A面いきなり、それまであった彼らの音像から離れたハードさを持つ「ダンス・オン・ユア・ニーズ」で始まる。
野太いベーシックリズム、機械的ドラムの背景で、女性コーラスが寸断前後リピートしつつ鳴り、スクラッチな重なり合いをする。
そのまま2曲目「アウト・オブ・タッチ」(このアルバムから最初のシングルカット曲)へ地続きで入って行く。

■hall & oates ”method of modern love”1984■
A面3曲目は、2枚目のシングルカットとなった「メソッド・オブ・モダン・ラヴ」。
性急でアップテンポな1,2曲目から一転して、スローダウン。
月明かりの夜にふわふわと浮かぶような詞・メロディ・よく”泣く”ギターが合い間った姿は、実に美しい。

このアルバムでは、上の3曲とは別に、好きな曲がA面最後に収録されている。
聴き込むたびに鳥肌が立つような官能を覚える曲「Something Are Better Left Unsaid」。
日本語タイトルは「言わずにおいて」。



■hall & oates “something are better left unsaid” 1984 ■
アルバムの装丁としては、「ヒップホップを取り込んだホール&オーツ」という表層的言い回しがあったとしても、それはあくまで表層。
魂に訴えかけるソウルフルな音楽は揺らがない。
彼らの曲を聴いていると、いつも思うのは、イントロからノックアウト。。。という曲も多いが、後半になるほどヴォルテージが上がって行く曲があって、そこで深みが出るものがある。この曲は後者に属する。
彼ら独自のスタイルに引き込まれて、感情を揺さぶられる。
ふだん火を焚いてもなかなか燃えないこころだが、時代のはやりすたりによらず、今も自分のこころに日をともす彼らの音楽は有効である。


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2014年7月13日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~My Secret Garden~

2014-07-13 23:10:25 | 音楽帳



■モーガン・フィッシャー 「都市生活者のための音楽」1988■

7月11日 金曜日
金曜日の夜、二軒目、二人の後輩を連れて、昔よく後輩と隠れ家にしていた、露地のボロボロのビルへ。
通った店が無くなっているのは知っていたが、それ以外のお店も変わっていた。
行き当たりばったり、見つけたショットバーへ入る。

童顔のまま大人になった背の高い男の子、かたやもうすぐ三十歳になる女の子。
彼女は、付き合っている彼氏との結婚を含め、悩んでいる。
二人とも、ここ一年半の付き合いだが、男の子には子供が産まれ、女の子はこの半年で綺麗になった。
三人で話しているうち、三人ともいずれかの時期、関西に関わっていることから、話は阪神淡路大震災の話しに向かっていき”あの日”のことになった。
すると、近くに居た異国の女性が「あのとき、わたしもそこにいたのよ」と話しに入ってきた。

7月12日 土曜日
明け方にそこそこ大き目の地震があったのを、目覚めてから知る。
案の定の二日酔い。台風一過が残すは、熱風。
外は金曜日から再度30℃越えの猛暑になった。
トランクス一枚のハダカで、せんぷうきを回しながら、少しのスキマを残し、カーテンを閉めた部屋で横になる。

植物たちにお水を上げに行くと、皮膚に突き刺す「まずい暑さ」を浴びてあせる。
今年は冷夏と予報は言っていたが、それも数ヶ月前のこと。
地球がどうなるかは、誰にもわからない。
きゅうりを収穫。こんな暑くても元気なきゅうりのたくましさ。
ピーマン、ナス、ゴーヤは元気が無いので、顆粒と液状の栄養剤をそれぞれにほどこす。
織り成す小世界。栄養を回すために摘心。枯れた葉を、はさみで落としていく。

元居た部屋に再度横になり、耳のみを生かして、TBSラジオを聞く。
永さん・外山さんの「土曜ワイドラジオTOKYO」~久米さんの「ラジオなんですけど」~宮川さんの放送。
やはり翌日が休みの日でも、外でのお酒はやめよう。

聞きたいラジオが終わってからは、録音した「たまむすび」。
19時を過ぎて、蒼い世界が外を包む。
今年初のエアコンをつける。一番暑い時間にはつけずに済んだが、日没後まで余波が続くのには耐えられなかったのだ。

夜、野菜カレーを作り、冷蔵庫で冷えた残りご飯に掛けて食べる。
冷・温が絡み合ったおいしさ。

深夜になり、再び灯りを消したものの、未だ古い携帯を、暗闇でかちかちさせて、三島由紀夫を巡る本の書評に読み入ってしまう。
三島の内面の源泉を理解したいと思いながら、不確かな感覚をずっと持っている。様々な本を読んでも。
最近の書らしいが、公表されていない文筆を頼りに、彼の存在の輪郭に迫った本の書評を読み、その本が読みたくなる。

7月13日 日曜日
このところ、ずっとお腹の調子が悪い。ビールのせいもだろうが、料理した食べ物が当たったのかもしれない。
(今日も夜、外から帰ると、せっかく作ったカレーが腐っていた。)
トイレ通いを続ける。外は朝から雨が降りそうな曇りだが、曖昧な天候のまま午後へ。

このままでは土日も終わってしまう。15時無理をして外に出る。今日もあての無い旅。
昨夜、三島本と共に知った本を求めて、島の本屋さんに寄るが売っていない。

この勢いを断ってはいけない、と、一路神保町に向かう。
古本屋めぐりをして数冊の本を買い、三省堂で求めていた「愛国者の憂鬱」を買う。
反原発デモで偶然出会った二人、鈴木邦男さんと教授の対談。3・11を経て、昨年末に実現されたらしい話し合い。
二人は、何をどう考えているのか、それを今知りたい。

右は、モーガン・フィッシャーの「CM WORKS」というCD。
上の好きな曲が入っている訳ではないが、神保町で偶然発見して買ったもの。


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2014年7月12日 土曜日 ~ラジオなんですけど~

2014-07-12 23:56:47 | 想い出かたちんば
久米宏さんに出会ったのは小学生の頃だった。
今日、TBSラジオの「ラジオなんですけど」を聴きながら、シニカルな笑い方が久米さんらしく、何ら”あの頃”と変わりない。そう思う。

***

小学生の頃の土曜日。
学校に土曜日も行き、放送発信される地点・赤坂を離れ、地下鉄を辿って三ノ輪に着く。
土曜日昼間の通りでは、七輪で魚を焼く釣竿職人のおじさんらの風景。

いつも帰ると、母親は塩シャケを焼いてくれていて、それでご飯を食べた。
”塩分摂取は悪”であり”病気の元”という嘘健康思想流布までは早い時期で、この頃のシャケは本当にしょっぱくて美味しかった。

食べた後、自分が与えてもらった部屋に入り、ラジオをひねると久米さんの声。
お3時には、”ティーブレイク”コーヒーを飲む時間があって、当時コーヒーを飲めなかった自分は、久米さんが飲むコーヒーの音と語りに「オトナ」を頭に描いた。

長い時間のラジオ番組、ということでは、今も永さん・外山さんの「ワイドラジオTOKYO」が続いているが、長丁場だからこそ気取らずリラックスしてくる在り方は、暮らしに密着するし、一緒に時を過ごしている感覚に至れる。

***

久米さんのファンなのか?と言われると、そういうことでは・・・と思うし、好きで好きで仕方が無かった小島一慶さんとの関係とも違う。
だけども、40年近い付き合いの中、久米さんが出る番組をほとんど見聞きしてきた。

今日の「ラジオなんですけど」が400回を迎え、第1回目を聞いてから8年も経つことに時間感覚の不思議さを覚える。
今では堀井美香さんが久米さんの話しを受けるが、そのやりとり、間合い、気配感は、まさにラジオならでは時間。

ラジオジングル曲のさわやかさも含めて、今が永遠であるように思えてしまう。
先ほどに戻れば、久米さんの不思議さ・”上手さ”とは、「どうも自分が考えることとは違う」と思っていても、結局気になって番組を見聞きしてしまうことだろうか。

■「ラジオなんですけど」2014年6月21日■
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2014年7月11日 金曜日 かたちんば・夏の100曲 ~極私的深夜便~

2014-07-12 01:24:01 | 音楽帳
ヤケ酒では無いが、泥酔しての帰宅。水分補給して正気が戻る。

今週、珍しくパソコンの電源を消して眠る夜が幾晩かあった。
脳には良くないのだが、何か”ざわめき”が無いと眠れないので、録音したラジオか音楽を小さく流しながら消灯するのが通常だった。

こんな夜。
寝床に置いたラジオを暗闇でチューニングしているうち、NHK”ラジオ深夜便”に耳が止まる。
くだらない声優の番組やら、小難しいゴリゴリの番組は聞きたくはないときに、ラジオドラマや対談などをささやくラジオ。
NHKならではの適度なテンポと穏やかさを時折、聞きたくなる。

流れの中で、大学教授さんのお話しコーナーがあり、記憶と脳のメモリーをテーマにしたものだった。
暗闇の中、めがねをはずし・横になり、首振りせんぷうきに当たりながら、ふむふむと聞いてしまう。

「モノ忘れが激しくなった」「自分も歳かなあ」など”あたかも常套句のように”言われるが、むしろそう思い込むこと・そのものが、そうさせていく、と先生は言う。
歳を蓄えた方が、むしろ実は判断力が増し、脳のメモリーは豊かになっていく。(その一方で減って行くものもあるが。)
たしかに、先生の言う話は的を得ていると感じた。

***

容赦ない・日本(という国亡き)人は「良い歳をして」と言うが、自分は”あれ”から数十年が経過している意識がない。
しかし、それも昨年秋までのことで、そこから親の看病という現実にぶち当たり、そこを経て地団駄を踏み、出口を失っていた。
まさか十二支を四周もしてしまったなんて、だったり、まさかあの人が・・・と愛する人だったり。

まるでそれは浦島太郎そのもの。
心が痛くてひりひりする。
頭を鈍器で打たれたような感覚になる経験が、昨年秋から多くなった。

まだ立ち読みしか出来ていないが、先週土曜日、本屋さんで発見した養老先生の最新作「死の壁」。
これを買ってヒントを得よう、と思う心境の昨今。
この半年+アルファは、自分には重いが、それでも「”歳(とし)を経ること=ボケ化」という思い込みはやめるべきだろう。

***

そういうモードに入って以降、急激に白髪が増えた。
勝手な自己診断をするなら、自分が今になって気付いてしまった”歳”を意識し過ぎ、老いた、と思い込んだせいで白髪が増えたのだ。
そう思い込みが植えつけられねば、こうはならなかっただろうし、今後もそうだろう。

白髪が出始めることと、歳を重ねることを同列軸に並べる自己催眠から解脱すること。
裏付けのない邪教を追い払うべきだろう。

あと言うなら、”世間”や”ネット上の邪教”も信じないこと。
身近な人、長く付き合ってきた人、お世話になる人、お世話になられている人、バカ笑い出来るなかま。
敬意を抱く人、モノ作りの好きな人、一緒に遊んでくれるネコ、目を潤してくれる緑。。。。そんな人や生き物たちとのキャッチボールに生きていきたい。
これからも。なおいっそう。

■Human Audio Sponji 「You’ve Got To Help Yourself(以心電信)」'07■
細野さんと教授の相対するものが融解し、新しい道を創った”Human Audio Sponji”。
これが、その後の新しい川を作っていく。

「You’ve Got To Help Yourself(以心電信)」で始まった、パシフィコ横浜・2007年5月19日のライヴ。
雨に傘を差しながら、横浜からの遠い道を帰った、それを想い出す。

「You」は「You」でこそ救える、という細野さんが意図した「自助」の思想。
そこには、その人自身のチカラが最後だとしても、支える人が居ることが必要である。
テコの原理のように、支える人がチカラをたずさえて成立する。

セルフの内的チカラが発現し、魔が去っていくまでの間、テコの片方で”えっさおっさ”と変わりばんこにチカラを入れる。
その大事さを、親の看病の末に奇跡が産まれる過程で学んだ。
お花だって、変わりゆく天候の中で雨風に応じて、手当てをするから咲いてくれる。それとおんなじだ。

誰かかけがえのない・大事な人が困ったならば、助けるべく動くし、祈りもする。
一体、自分に何が出来るのだろうか。。。と呆然とするけれども、何かがあるはずなのだ。
自分にとって、育ててもらったかけがえがない存在であるならば、何かをせねばと思う。
自分の魂の恩人を助けたいと思う。

■YMO 「ワイルド・アンビションズ」1983■
YMOにして、細野さんと教授が”唯一”競演した曲。
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2014年7月10日 木曜日 かたちんば・夏の100曲 ~パンドラの引き出し~

2014-07-10 22:11:57 | 音楽帳

1983年末、YMO散会とダブるようにして、ジ・アート・オブ・ノイズ(実質トレヴァー・ホーン)の「イントゥ・バトル・ウィズ・ジ・アート・オブ・ノイズ」の発表。
それを契機にして、1985・6年まで一気になだれの如く・機械音で埋め尽くされていく音楽界があった。
(信用ならない)評論家的単純比較論で「今と比べてああだのこうだの・・・」はさておき、当時自分の地殻/知覚は戦争渦中だった。

***

微細な音を嗅ぎ分けるためにヘッドフォンリスナーだった自分は、一日自由になる時間は全てヘッドフォンの中に居た。
それを”引きこもり”と呼ぶならば、そうであろう(実に安易な理屈)。
但し、自分の場合は、野外と室内を行き交う”引きこもり”。

当時は安価なモバイルプレイヤーとしては、ウォークマンに端を発したカセットテープ型のプレイヤーだったが、そうも安くないし持ち歩けるカネがあるなら、レコードに投資していた。

そんな中、ヘッドフォンで一日中音楽を聴いていると、機械の打ち込み音・アタックの強さのせいでフラフラする日々を繰り返していた。
まるでカウンターパンチを喰らったボクサーみたいに、日に日に崩れていく表情。

ジ・アート・オブ・ノイズは、明らかに「B-2UNIT」のパクリであったが、それをポップなカタチで流通に乗せる「ワザ」は見事であった。
しかし、過剰な音が、人の精神の傷口を広げることにも大いに加担していた。放火魔としてのトレヴァー・ホーン。

***

在りし日の日本国内が、一部の創造的音楽を創るミュージシャンと”その他”に二分されながら進みつつ、前者が後者=いわゆる歌謡界を一つの実験場として侵食していく流れも受けつつ、後者はさっさと(テクノとも違う)打撃音強い機械を取り込み、ノイジーなカオスに突入していく。

その交差点で、1985年教授とトーマス・ドルビーとの共作「フィールド・ワーク」が発表される。

1985年4月、御茶ノ水のスクランブル交差点。
かたや大学生、かたや自分を含む浪人生。そんな身分異なる連中が集まった。
3月まで汗臭い男子校で、日々一緒に苦々を共にした同級生というのに、もうそこには深いミゾがあった。
自分はその交差点のディスクユニオンで買った、12インチ「フィールド・ワーク」を脇に抱えて。

苦々しい想いを抱きつつ、”一抜けた大学生”はスケベなオンナを横に、嬉しそうにビールを飲んでいた。

***

”音楽”と”自分の生”を繋げてしまう、自分の幻想。
それまで形成されたものが、更に強化された一場面。

自分の弱さに打ちのめされ続ける中、”押し寄せてくる暴挙に対峙するには、自分もそこに入り込んでいくしかない”。
そう覚悟を決め、決死の心境でノイジーな音まみれに入っていった。
ボードレールの言葉である”自ら地獄へ身を投じよう”という心境だった。



■如月小春&坂本龍一 「ネオ・プラント」1986■
(立花)ハジメちゃんの「テッキーくんとキップルちゃん」(1984年作品)に収録された機械曲は、FM番組『FMトランスミッション/バリケード(*)』の番組テーマ曲だった。
その番組を毎週土曜聴き、学習しつつ、様々なレコードを買う。

(*)ピーター・バラカンさん&アッコちゃんの『スタジオテクノポリス27』が、アル・グリーンの”レッツ・ステイ・トゥゲザー”をもって終了した後、始まった番組。

片方でアコースティック他の音に救いを求めつつも、打撃音の強い音楽に身を投じる。
YMOで言えば、幸宏はハジメちゃんとシンクロした「ワイルド&ムーディー」(1984年)。
細野さんは、「SFX」(1984年)~FOE(ザ・フレンズ・オブ・アース)の活動。
教授は、上記「フィールド・ワーク」~「ステッピン・イントゥ・エイジア」~「TV-War」~「エスペラント」~「未来派野郎」。

2014年とは別の意味で、異様な状況と時代。東京カオスの中のマグマ。
そういう時代の中での、もがき苦しみが表現された記録たち。

自害に近い感覚で、これらの音楽を修行のように聴いていた日々は、1986年の終わりまで続いた。
自分の中で、1984→1986年は耐え難い苦しみだった。

なんでこんなに封印していた記憶の断片の集積を、アトランダムに走り書きをするのか、は自分が若干パニックになっていたせい。ご想像の通りであり、それ以上語れない。
気力体力も無いポンコツ車であろうと、今一度ネジをまいて走らねばならない。自分が生きた道を、ちゃんと語らねばならない。

地方から東京へと向かう・向かい合わせ席の電車に揺られながら、台風迫る空の雲が流れていくさまを呆然と見ていたのは、まだ日暮れ前。
だが、そんな心境も一時的なインパクトに過ぎない。
数時間を経て、一時的感傷は排せねばならない、というところに至った。
”Never Let Me We Down”なのだ。
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2014年7月9日 水曜日 かたちんば・夏の100曲 ~Out Of Noise~

2014-07-09 23:39:30 | 音楽帳
昔ならば、相棒ネコのみんなの首後ろに、お袋が”ノミよけ薬”をちょっちょっと付けるべき時節。

まみやん 2002年7月10日・夜
昨夜は、ひさびさに熱帯夜。ハダカにせんぷうきで寝るが、朝だるい。

今夜は雨降りだが、風はさわやかには流れず。
湿気過多の梅雨らしい一帯がムロの世界。

2002年6月18日
食べものも足が速く腐ってしまうが、可能な限り失礼の無いようにせねばならない。
人間と動物と植物と昆虫と・・・なる生き物の関係に昔から抱くジレンマは、未だ自分の中で解決しえず。
「稚拙で恥ずかしい」という”自分が自分に向かって言う”言葉はあれども、生き物と一緒に暮らしたことの無い・耳年増で脳だけが発達(?)した者の”理屈・論理”を聞く耳はない。

今頃の雨の日にタンジェリン・ドリームの「EXIT」を聴いていた感触から、帰るとヤニーのCD「キーズ・トゥ・イマジネーション」を聴いていた。
無意識の装置は、タンジェリン・ドリーム→元メンバー、ピーター・バウマン→彼が作ったレコード会社「プライベート・ミュージック」→ヤニーと至った。
音楽自体は好きなのだが、ジャケットが如何にもなラッセン風なので、”あれ”がよぎってしまう面が否めず。

2002年6月23日
「環境ビジネス」に音楽が活用され、そこに”乗っかり”して、音楽が音楽ではない犯罪に手を染めたのは、80年代後半と記憶している。
1999年終末論に対して、様々な事象が確かに行き詰まりを見せる中、”エコ”ブームが這い回った。
そのスキマに、新興宗教が漬け込み、幅を利かせ、拡散し出した時流。

音楽も社会の一部として同次元認識してしまうのは仕方無いとしても、ゆえにスタンスのあり方が非常に難しく、誤解を回避するという面倒なワンクッションが必要だった時代。
それは昔も今も同じだろうが、(最近は一時的対処なのであまり行かない)マッサージ店でに入って、ヨガにも流れる類のBGM音楽に嫌悪感を覚えるとき、過去実際日本で起きた事態を知らないのだろうか?という恐れを想起する。

2002年6月23日
と思ってしまったので、音楽そのものに向かう。

■ジェフ・ベック 「エンジェル」 (Live at Ronnie Scott's)2007■
ジェフ・ベックは、六つ上の兄から中学生の頃・LP「ゼア・アンド・バック」を聴かせてもらったものの、自分には響かなかった。
その後、随所で聴く場面に出会いながらも、自分には沿わない音と思い込んでいた。
この「エンジェル」は、今年に入ってから、とあるFMで流れ「いいギターだなあ」と思い、そこから辿ってジェフ・ベックだと知り、目からウロコが落ちた。

2014年貴重な出会いの一つである。
ロックのルーツがブルースである経路を確認する。
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2014年7月8日 火曜日 かたちんば・夏の100曲 ~そら、など~

2014-07-08 22:54:33 | 写真日和

■井上鑑 「Melting Blue」1983■






















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2014年7月7日 月曜日 かたちんば・夏の100曲 ~たなばた~

2014-07-07 23:17:08 | 音楽帳
七夕(たなばた)の七月七日だが、雨と曇りを繰り返す。
この日だからと、AM・FMによらずラジオからシンプリー・レッドの「スターズ」が掛かる。
いつの間にか、この日の定番となっているんだろうか。

星の見えない夜には、デヴィッド・ボウイの「スターマン」まで流れた。
そういう流れの中で、自分が選曲するとしたら、この曲だろうか。

■Dubstar 「Stars」1995(From「Disgraceful」)■
この日は、帰り道の電車で、入谷の朝顔市帰りの、アサガオを持った人をよく見る日である。
半年を終えた夏越の大祓から、たかだか一週間である。
よく思っていながら言葉に出していなかったことの一つは、東京という場所は、祭りが多すぎること。
気が付くと通り過ぎているものばかり。

外国から来た人が「一体、ココはどの日が日常で、どの日が非日常なのだ?」というごくごく当たり前の疑問を抱くことに、自分の疲弊がダブる。

まるで”退屈=悪”のような”みなし”は昔と同じで、強迫神経症そのものだが、これが今では蔓延している。
なにかをいけにえにした”まつりごと”は、今では都市東京の祭りではなくて、均質化してしまった地方都市も含めて当たり前になってしまった。

まだ闇は存在するし、そこを見つけつつ歩くのは自分の友も同じだが、光が覆い出していて、なかなか見い出すには困難であるのも事実。
光を浴びすぎて干からびないようにせねば、と思う。


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2014年7月6日 日曜日 かたちんば・夏の100曲 ~静かの海~

2014-07-06 13:10:34 | 音楽帳

日は明けて光が室内に差して来ても、
腰が痛いとわかっていても、起きたくない朝。
黙って横になって布団をかぶっていたが、脳内で邪念が涌いて止まらない。

そこで、イーノの「Ikebukuro」を繰り返し掛け、耳から入る音の波に呼吸を合わせる。

数十分を経て起き上がり、お湯を沸かして緑茶を煎れる。
布団をまくらに、横になって手近に積んだ本を両手で広げてめくる。
脇に置いた緑茶を、ちびちび飲みながら。

片方のラジオでは、安住紳一郎さんの放送が鳴る。
もう片方では、イーノの1983年作「アポロ」が鳴っている。
脳内で渦巻いている邪念を、こちら側にある程度適当なバラつきを起こさせることで、いさめていく。

横になった姿勢でCDケースを眺めていると、表面に反射して空が見える。雲はあれども、うすい青空がのぞいている。

■ブライアン・イーノ 「Always Returning」(作品「アポロ」)1983■
イーノは、1982年作「オン・ランド」以降、しばらくはその神ワザが消えていく。
聴く者はみんな、そのオーラの消失をわかっていたが、私はそれでも執着していた。

1982年春から夏への流れで出会った「オン・ランド」、
1983年夏に出会った「アポロ」。

作品「アポロ」は、映画として公開された「For All Mankind」のサウンドトラック。
この映画は、小さい映画館のみで短期間上映だった。
(実際の映像を自分が目にしたのは、80年代後半・NHK教育テレビ。日曜の昼下がりのこと。)

当時は、映画より音とイーノのインタビューが先だった。
イーノが、この仕事を受けたときの戸惑い。
NASAのあるがままの映像に、どんな音を同期化させたら良いのだろうか?
相当苦労した作品だった、しかし、ドリーミーな体験だったと語った。

この映画は、映画というよりもドキュメント。
アポロが月面着陸へと向かっていく、実際の映像を繋ぎ合わせたもので、それ自体だけで十分魅力的である。
イーノが珍しく心はやって、情感たっぷりの曲が入っているのも、この映像に感化された結果なのだろう。

見たことの無い方には、この夏お薦めの映画である。




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2014年7月5日 土曜日 かたちんば・夏の100曲 ~ロバート・パーマー「プライド」'83~

2014-07-05 20:56:40 | 写真日和



■ロバート・パーマー 「シルバー・ガン」(アルバム「プライド」)1983■
かつて雑誌「ロッキン・オン」のライターさんが、キュアーの音楽を語った文章を想い出す。
深夜、家の近くにある誰も居ない崖を一人降り、夜の森にひそむ、という趣味とキュアー/ロバート・スミスを結び付けていた。
私個人はこの文章とロバート・パーマーのこの曲を結び付けてしまう。

アルバム『プライド』は、タイトル曲「プライド」それに1983年の音楽を総括するFM番組で盛んに掛かった「ユー・アー・イン・マイ・システム」も良いが、この曲を薦めたい。

午前はぱらぱら雨と曇りを繰り返していたが、長い午後歩いていると次第に青空となっていった。









よく朝出会うけど、最近、距離が一気に縮まった色気のある三毛猫さん。
若いからだろうが、よく遊ぶ。







■ロバート・パーマー 「You Are In My System」(アルバム「プライド」)1983■
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